keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

「論理的に物事を考える人は心が冷たい」は本当か

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論理と情感を二項対立させ、かつそれらが同時に成り立たないとする言説、形を変えていろんなところで聞きます。

僕も何となーく、そうなんだろうと信じていました。

そして、論理側に自分が振れすぎないように、気を使ったりしてきました。

しかし、昨年の最後の方にちょっと考え方が変わりました。

 

昨年はアート分野で活躍している方とコミュニケーションする機会が多い一年でした。

すなわち、情感と論理を二項対立させた場合の「情感側」で活躍する人たちです。

彼らとコミュニケートする中で、驚くほど理知的に話す人が多いことに気がつきました。

そして、「芸術(情感)と科学(論理)って似ているなー、論理と情感の二項対立ってあんまり意味ないよなー」と思いはじめました。

 

僕が芸術と科学が似ていると思った理由は大きく二つあります。

一つは、どちらも何かを近似化しようという行為であるという点です。

芸術は作品によって感動を近似化しようとします。

だから、たとえば絵画の分野では現実を鏡に映したような写実画が必ずしも人を感動させることができるわけではありません。

芸術とは広義には感動という捉えどころの無いものを近似化して作品にし、それを見た人の心に感動を生み出すことを希求する行為だと思います。

だから象徴画や抽象画が芸術として成り立つのでしょう。

一方、科学は現象を数式によって近似化しようとします。

自然現象を数式によって予測し、自然を説明できるだけの、限りなく自然に近いモデルの構築を目指します。

そうして、誰が何度やっても同じ結果がでる矛盾の無い論理体系の完成を目指します。

 

僕が芸術と科学が似ていると思ったもう一つの理由は、芸術と科学がどちらも近似化の対象を真に表現することはできないことを前提としている点です。

すなわちどちらも真善美を追求しながらも、そこに到達することはできないという前提を持っているのです。

たとえば、どんなに美しい芸術作品でもそれは「真の美」にはなり得ません。

あくまでも、「真の美」に近づけたものを作っているにすぎないのです。

仮にある芸術作品が「真の美」であるとすると、その作品とは何の対応もない他の芸術作品を僕たちが美しいと感じる理由が説明できなくなってしまうのです。

芸術の多様性そのものが芸術が「真の美」に到達することができないという証左になっています。

一方科学が用いる数式も、自然現象そのものになることは永久にありません。

たとえば、「複雑ネットワーク」の分野では、人的ネットワークを分析することを通して、病原菌の拡散経路分析などを行いますが、分析結果は現実そのものではありません。

近似化したモデルで、限られた認識のなかで予測や分析を行うことしかできません。

さらに、すべてのデータを収集することは不可能ですし、現象は時々刻々と変化し、観察行為そのものが現象自体に影響を与えます。

仮にすべてのデータを収集することができたとして、限りなく短い一瞬の現象を写し取ることができたとしても、それを現実と呼べるのかどうかは疑問です。

 

芸術も科学も、事実を積み重ねて体系化し、長い歴史の中で真善美を追求してきました。

究極にシニフィアンに近いシニフィエをつくりだす為に幾人もの人が努力を続けています。

やっぱり似ているなーと僕は思います。

きっと科学者には熱い思いが有り、芸術家は戦陣が残してきた技術の論理体系があるはずです。

明確に線引きができるものでは無いと思うんですね。
だから、僕には論理と情感の二項対立がなんだか空虚なものに思えます。

以上から「論理的に物事を考える人は心が冷たい」は偽だと僕は考えます。