keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

西垣通「スローネット」を読んで、いわゆる「情報強者」に言っておきたい事

久しぶりに「ビビッ」とくる本に出会いました。
僕が前々から持っていた問題意識が的確に分析、言語化されていました。
思考のアウトソーシング(=人の意見をいつの間にか自分の意見にしてしまい、考える事を辞めてしまう事)を恐れる僕ですが、今回は思わず「そうそうそれそれ」と納得する事が多々ありました。

著者のプロフィールなどはこちらを。

スローネット―IT社会の新たなかたち

スローネット―IT社会の新たなかたち




【書評】
この本の中で著者は一貫して情報化社会に対する問題提起をして、アメリカ型「情報化ユートピア思想」に警鐘を鳴らしてます。
ITに対する僕たちの認識は、より世界をフラットに、そして人々の生活を便利にしてくれるもの。概ねこういったものであると思います。
情報技術の研究者、そしてIT企業で志高く働く人々のモチベーションもこういった価値観に由来するのではないでしょうか。
ところが、「IT技術によって私たちの生活は本当に豊かになっているのだろうか」というのが著者の問題提起です。
ITは私たちが本来行うべきだった煩雑な作業を代わりに行ってくれて、私たちに余暇や文化的な生活をするための時間的余裕を与えてくれる、そして世界中に張り巡らされたネットワークにより世界はフラットに、平等になり世界は平和になる。こういった思想に疑問を投げ掛けています。
IT技術によって私たちの余暇や文化的な時間は本当に増えたのでしょうか。
著者は逆に減ってしまったのではないかと言っています。情報技術はより物事がより高速である事を志向しますが、私たちの「時間」というものは戸別具体的なものであって、ある一つの指向性が存在するわけではありません。
IT技術を振興し、世界全体をそのフレームワークに当てはめる事は、個々の具体的な時間感覚を均質化してしまう事だと著者は言っています。
世界がフラットになれば個人間の情報交換も促進され、差別が無くなり、機会の平等が担保され、世界中に友達ができる。こんなイメージがあると思います。
しかし、世界を情報技術によってフラットにすることなど本当に可能なのでしょうか。
著者はその為に犠牲にしてしまう事は多いと言っています。
例えば英語を例にとりますと、英語が世界言語と言われて久しいですが、世界中の人が英語を話し始めたとしたらフラット化の代償として失われるものも多くあるのではないでしょうか。
文化と言語の繋がりは大変密接かつ強固です。英語表現が標準になれば日本語の繊細さや所作の機微を読み相手を気遣う文化が希薄化してしまうという事もあり得ます。
このような、情報化社会におけるユートピア信仰には大きく以下のような基礎信仰が存在すると著者は言っています。
一つ目がアメリカに対するコンプレックス、そしてそこから来るアメリカニズム信仰です。
近年情報技術におけるプロダクトや概念のイノベーションはそのほとんどがアメリカで起こっています。日本の企業や大衆はずっとそれを追随する形をとってきました。そんな中で、情報分野においてはアメリカにはかなわないというアメリカに対するコンプレックスが形成されていきました。
そのアメリカが志向しているのは若く、新しく、改良を続けるものが素晴らしいというアメリカニズムです。
もう一つが、世の中には個別具体性を超越した客観的な善悪の精査規準があるとする「客観世界信仰」です。(この信仰は一神教や合理論と関わりの深い西洋らしい思想であると感じます。)
著者はこのどちらの信仰も幻想であると論じています。
たしかに若さやフロンティア精神が尊ばれる環境も確かに存在します。移民当初のアメリカ大陸などはまさにそうでしょう。
しかし、その価値規準が世界標準となっている現状は明らかに異常です。
「温故知新」という諺があるように新しいものだけが正しいわけではありません。
また真の客観世界など存在し得ないと著者は述べています。
私たちはそれぞれが個別のルールで動く個別具体的な自律的な存在です。
情報の取得と解釈も個別のルールによって行われます。
そんな私たちがコミュニケーションをとる事ができるのはローカルな条件のもと個別具体的な僕たちが情報処理過程の擦り合わせを行っているからだと著者は述べています。
著者は現在の情報技術には「文化的考察」が欠けていると述べています。
IT技術の進歩拡充こそが是であるという結論の下、短絡的な価値規準が世界を征服しつつあります。
私たちの生活からITを切り離して考える事は現実的に不可能です。
これからの僕たちに必要なのは自分たちに必要なものを冷静に自分の頭で判断する事なのではないでしょうか。


【僕はこう考える】
僕は今の日本社会、特に若い人たちの間に蔓延している情報技術信仰に以前から違和感を覚えていました。
TwitterFacebook上では毎日おびただしい量の情報交換が行われ、最新の情報に価値が置かれており、そういったサービスを使いこなせない者や最新の情報に疎い者は「情弱(情報弱者)」といって罵られます。
しかし、最新のものこそ是であるという価値規準は一体誰が決めたものなのでしょうか。
そして、若者たちが血眼になって取得しようとパソコンに向かい、「自分は最新の情報に乗り遅れていない、最先端を走っている」というアピールをする為に競って共有しようとする情報は本当にそうする価値があるものなのでしょうか。
僕はこういった価値規準の多くがアウトソーシングされたものだと思います。
資本主義や新自由主義における勝者たちの恣意性が多分に感じられます。
(資本主義や新自由主義が悪いと言っているわけではありません。しかし、制度上勝者が社会構造を恣意的に操りやすい構造を内包している事を指摘しておきます。)
そのような価値規準の下での生活に疲れて来ている若者が除除に出て来ているように僕は感じます。
元来(ある状況を切り取れば何にでも使えるのでこういった言い方はあまり好きではないのですが、、)日本にはこのような価値規準は無かったのではないでしょうか。
荘子の混沌の話や日本のアミニズム信仰に見られるように、元来日本には多様性、煩雑性、混沌性を重んじる文化があったように思います。
一つの価値規準によって物事を判別、序列するという行為はもしかしたら僕たちにはあまりなじまない事なのかもしれません。
このように現状とあまりに乖離した次元で物事を論じるのは無意味かも知れませんが、情報化社会に疲れて来ている人がいる以上は僕たちの中の何らかの文化的・思考的な下地が適合を拒否しているのではないかと僕は考えます。
やはり唯一絶対的な客観の存在を前提に物事の是非を議論する事は傲慢だと僕は考えます。
(正確には、客観世界が存在するとしても人間がたどりつけるところではないという事です。客観世界が絶対に存在しないと断定するのも一種の信仰ではないでしょうか。)
とはいったものの、僕たちの生活は確かにITによって便利になった部分がありますし、もはや切っても切れない関係にあります。
そんな中で僕たちがより幸福に生きていく為には常に自分が採用している価値規準を信じながらも疑問を持ち続ける事が重要なのではないでしょうか。
また、たまには情報技術が志向する価値規準を離れるのも重要だと思います。
すなわち、パソコンや携帯の電源を切り、情報の流れから離れて、自分の内なる声に耳を傾け、自分にとって心地よいスピードを探っていく事が重要なのではないでしょうか。
情報技術の発展が「人類の進歩である」と言えるように上手に付き合っていきたいものですね。

ではでは。