日本人が失敗に寛容になる日はくるのか
ベンチャー界隈では、「シリコンバレーの人たちは失敗にとても寛容だ。日本人もそのようにマインドセットを変えていった方が良い。失敗を恐れずにドンドン挑戦していくべきだ。」といった言説をよく聞きます。
そのようなことが本当に可能なのか、考えてみました。
(一回も行ったことはありませんが)シリコンバレーの人たちが失敗に寛容だと言われる理由は、多く失敗している人ほど体験から多くのことを学んでいるはずなので、次の行動の成功確率は上がるだろういう希望的観測からきているそうです。
一方で、僕たちにとっては「一度失敗した人」は「また失敗そうだ」と感じてしまうのが一般的な感覚ではないでしょうか。
確率論的に考えると、互いの事象が独立である場合、「試行A」の結果が「試行B」の結果に影響を与えることは有り得ません。
しかし、なんだか僕らには二事象間の結果に関係があるように思えてしまいます。
その「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」が日本人の失敗への不寛容さを生み出しています。
僕は、その「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」が、いわゆる「ご縁思想」と密接に結びついていると考えています。
「ご縁思想」とはちょっとした出会いや気づきでも”袖触れ合うも他生のご縁”と思って大事にしよう、という考え方です。
この考え方によって救われた経験がある人は少なくないのではないでしょうか。
僕も偶然の出会いにご縁思想が相まって素敵なことが起こったことが何度かあります。
この、「ご縁思想」は先程言った「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」が生み出しているのではないかと僕は考えます。
これに関連して、面白いエピソードがあります。
第二次大戦まで日本海軍は一度沈没してしまった軍艦の名称を「縁起が悪い」と言って二度と使用しなかったそうです。
一方で、アメリカやイギリス海軍は軍艦に同じ名称を何度もつけています。
さて、ここで重要なのが一体何が「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」を生み出しているのか、ということでしょう。
(ここでは、シリコンバレーの方の思想について深くは考察しませんが、近代科学観や唯物史観が影響を与えていると思います)
由来のひとつは、仏教思想だと思います。
”袖触れ合うも他生のご縁”の"他生"とは、仏教的輪廻観でいう「前世」や「来世」を指すそうです。
”現世で袖が触れ合っただけの関係でも、ご縁によって前世や来世で何か関わりがあるのですね”ということです。
そもそも「縁起」は仏教の根幹をなす思想ですしね。
ただ、多くの現代人にとってはこの説明はあまりピンとこないかもしれません。
由来のもう一つは、自然災害だと思います。
知っての通り、日本では地震、洪水、台風、雷、津波など多様な自然災害が襲ってきます。
哲学者の萱野稔人さんは、日本に革命が無いのは自然災害が革命のような役割を果たしているからだ、と論じています。
それほど自然災害は私たちの社会を物理的にも制度的にも大きく変えてきました。
そのような、超人為的(SuperではなくTranscend)な力によって人生を翻弄されてきた結果として、私たちは因果に絡む人為以外の何らかの力を無意識的に受け入れるようになっていったのではないでしょうか。
以上述べてきたように、日本人が失敗に不寛容である「独立な事象間に結果の因果があるように感じる」マインドセットは「ご縁思想」というとてもありがたい思想とセットになっています。
そして、自然災害という抗いようの無い環境要因に由来しています。
だから、変えることはなかなか難しそうだぞ、というのが今の結論です。