keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

歴史の不確かさ

 

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現在存在する政治論争の多くは、過去に起こった出来事や、過去から現在に残された記録に関する争いであると思います。

領土問題、憲法問題、歴史認識問題、etc...

 

たとえば竹島の領土問題に関しては、「大韓地誌」から「サンフランシスコ平和条約」にいたるまで、様々な”文書”の”解釈”を巡ってもめているとも見ることができるわけです。

日本と韓国のどちらも自分たちの主張、認識が正しいと考えて、争っています。

しかし、ここで一つの疑問が湧いてきます。

「本当に正しい歴史認識は存在するのか」ということです。

その時代に生きた人、その現場に立ち会った人がいない以上、僕たちの歴史認識は文字等による伝聞に頼る他ありません。

 

中島敦の短編「文字禍」で、書物に絶対の信頼を置く老博士に若い歴史家はこう訪ねます。

”歴史とは昔あった事柄をいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?”

現在、政治論争に参加しているほとんどの人は後者の歴史認識を持っていると僕は感じます。

その人たちは自分が生まれ育ち、慣れ親しんだ文化の下で、書物が揺るぎない「事実」を記していると信じています。

 

しかし、誰も過去の事実を知り得ず、また事実を確かめる方法が無い以上は、自らの主張が絶対に正しいと言い切ることはできないのではないでしょうか。

双方が持論に普遍性を認め、その正しさを主張しあっていては永久に問題が解決する日は訪れないと思います。

あくまで、自分の意見がある記録に対する、「ある解釈」基づいて構成されていることを認識すべきだと思います。

 

”文書に対する解釈は、その人が立つ立場によって大きく変わってくる”

この認識を持たない限りは、政治論争は不毛な感情論に終始してしまうと思います。

カール・マルクスは”存在が意識を規定する”と言いました。

自らが、ある都合や利益の為に、「ある解釈」を採用していることを認めること。

そして、論争の相手もまたそういった機構によって動いていることを認知し合うことが重要なのではないでしょうか。

そのことが、政治論争を不毛な感情論から、理知的な本質論に変えると僕は思います。

 

僕が具体的な政治問題についてブログであまり語らない理由はここにあります。(Twitterなどでは語りますが)

日々とっても頭の良い人たちが、知恵を絞って政情を分析し、その解決策を示しても物事が解決しない理由。そのことにこそ焦点を当てたいのです。