keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

何を教え、何を教えないべきか

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僕は今、伊豆市で小学1年生から高校一年生までの子どもたちに勉強を教えています。

現在はほとんど学習指導要領に沿ったことを教えているのですが、「勉強」というものに関して悩むことが多々あります。

一昔前に比べて、所謂「勉強」の社会におけるわかりやすい有用性は随分縮小していると思います。

 

よく言われることですが、高度成長期前後であれば、真面目に受験勉強をして良い大学良い企業に入れば「日本型経営」の下、一生安泰で暮らせました。

しかし、そんな時代も終わりを遂げ、どんなに勉強しても安定が約束されることは無い、そんな社会になりました。

そんな社会の中で、僕たちが子どもに教えるべきことは何なのでしょうか。

 

僕はそんな時代への一つの対応として、子ども達にいわゆる「勉強」を教えないという選択肢があると思います。

 

これからの日本社会は大きく二つの趣向を持った人に分かれると思います。

一つはグローバルな舞台で、諸外国のプレイヤーと競争しながら生きていこうとするタイプ。

もう一つはローカルかつスモールなコミュニティーで自活しながら生きて行こうとするタイプです。

子どもが後者を好み、またそうした生き方をしたいと望んだ場合、果たして「勉強」を教える意味はあるのでしょうか。

 

たとえば、ある漁村の中学校に一人の漁師の中学生の息子がいたとします。

その子は毎日朝早くから父親に連れられて漁師の仕事を教わっています。

海に出た後学校に通っているので、その子は当然授業中に眠くなって、居眠りをしてしまいます。

寝ているその子を見て、先生がとる対応には二つあります。

ある先生はその子を起こして、授業を聞かせます。

そして、ある先生はその子が早朝から漁に出ていたことを知っており、起こさずに寝させてあげます。

 

この二人の先生の対応のどちらが正しいのでしょうか。

僕はすごく難しい問題だと思います。

一般的には前者の先生の対応が当たり前だと思います。

しかし、前者の先生がしたことは本当に正しいことなのでしょうか。

 

この子はきっと数年後には立派な漁師になって、中学校で教わったこととは全く無縁の生活をすることになります。

自分がやるべきことが明確で、人から必要とされる漁師になれば、その子の人生は満ち足りたものになるでしょう。

後者の先生に対して、「こどもの可能性を奪っている」という批判があるかもしれません。

しかし、「勉強」を教えることによって、グローバルな環境に放ち、激しい競争の中に放り込むかもしれないのです。

ローカルな環境で、居場所が確保された道を歩ませるか、グローバルな環境で戦える武器を与えて競争環境に放り込むか。

僕にはどちらが正しいことなのかはわかりません。

(もちろん、これまでの話は今後も世界が資本主義の下、今と同じ価値規準で動いていくという前提があってのものですが)

 

ただ、今思うことは、数学や英語、物理、歴史などに関しては純粋に知的好奇心の対象として面白いものですし、学んで後悔するものではないと思うので、これからも教えていこうということです。

小学1年生関わるということは、それなりの影響をその子の人生に与えるということで、それなりの責任と義務があります。

今後も考え続けていかなければならないテーマです。

 

(絵は「フランダースの犬」でネロがめっちゃ見たがっていた「聖母被昇天」です)