keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

死ぬ準備はできておりません

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実は昨日思うところがあって、白血病の血液検査をしてきました。

風邪っぽい症状に加えて、リンパの腫れと関節の痛み、さらに足に覚えの無いアザができていたからです。(今思うと、アザ以外は全て風邪の症状ですね。でも、不安だったのです。)

結果は、「いたって健康」だったわけですが、検査結果を待つ約24時間の間に考えたことを記しておきます。

 

 

「もし自分が白血病で、余命宣告でもされたらどうしよう」と考えましたが、想像もできません。

自分の人生がここで終わってしまうなんてとても想像できませんでした。

 

マハトマ・ガンジースティーブ・ジョブズは「明日死ぬと思って生きなさい」と言いました。

本当にそんなことができるのでしょうか。

もし自分が明日死ぬと思って生きていたら、こうやってPCの前にはいないで、好きな人やお世話になった人のところに飛んで行って、感謝の気持ちを伝えたり、そういった命の使い方をしているでしょう。

 

かといって、永遠に生きることができると思っているわけではありません。

もし自分が永遠に生きることができると考えているとしたら、毎日をもっと漫然と過ごして、こうして”自分が生きた痕跡”を残そうとすることも無いでしょう。

 

僕を含めて、ほとんどの人は、「明日死ぬかもしれない。でもきっと死なない」という感覚で生きているのだと思います。

自分の命に対峙する感覚として、「刹那」と「永遠」の間を行ったり来たりしながら、心の安定を保っているのだと思います。

 

ただ、現代はそうした命に対峙する感覚が「永遠」の側に引き寄せられつつある時代だと感じます。

僕たちは、病気だったりお墓だったり産婆だったり身の回りにある「死」を意識させるものを、自分から離れたところに追いやってきました。

「死」を遠くに追いやりすぎると、死んでしまう恐怖は緩和されるかも知れませんが、刹那的であるからこその「生」の喜びも希釈されてしまうと思います。

 

先のガンジーのことばには、実は続きがあります。

「明日死ぬと思って

 生きなさい。

 永遠に生きると思って

 学びなさい。」

 

明日からも「明日死ぬかもしれない。でもきっと死なない」そんな生活を、「刹那と永遠」のバランスをとりながらしていくことになるでしょう。

 

(写真はエドヴァルド・ムンクの「マドンナ」。生きているようだけど、死んでいるようでもある、そんな絵画ですね。)