keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

顧客と供給者の出来事頻度

最近、結婚式の二次会会場を手配する用事があって、いくつかの店舗に説明を聞きにいった。
そのうちの一つの店舗で、店長さんが「私はすでに2000件以上の二次会をプロデュースしているので、どうぞ安心してください」という謳い文句で宣伝をしてくれた。
彼は数千件の二次会をプロデュースした事実を彼の店舗と彼自身の信用度を上げる要素として挙げてくれたのだと思う。

しかし、僕はそのことばに違和感を覚えた。

「こちらにとっては一生に一度のイベントだとしても、あちらにとっては数千分の一の出来事に過ぎないのか」と。

 

顧客の一回性と供給者の反復性のズレは産業化社会が背負う宿命なのだろう。

僕たちがフォーディズムや役割分業を採用した時点で、「ある分野にスペシャリストが生まれ、ある作業を反芻することになる」ということは宿命づけられていた。

このようなズレは様々な分野に立ち現れている。

冒頭の店長の場合は、「イベント当日のある一時点」、時系列上の一時点においては顧客はたしかに一人だけである。

一方、教育などはもっと極端で、時系列上のある一時点において、一人の先生が複数の生徒を相手にすることになる。

役割分業によって家庭が教育を担う役割を放棄し、教育機関に預けることによって、「生徒にとっては一生に一人の先生、先生にとっては複数の生徒のうちの1人」という状況が発生する。(教育を産業として見ることには抵抗があるが、確かに役割分業が招いた現象がここにはある)

 

そういった状況は相互の意識のズレを生み出し、顧客の満足度を下げる。

供給者側の「数千分の一の顧客」に対する意識は必ず顧客へ伝わっている。

この状況を改善する鍵は、供給者が顧客をどれだけ「一人の人間」として見ることができるのかということに関わっていると思う。

供給者が、一人の人を「顧客」として見た場合はその人は数千分の一の存在に過ぎない。

しかし、その人を一人の「人間」として見ればその人は唯一無二の存在に変わる。

その時その瞬間のその人はもう二度と現れない。

この時、初めて供給者と顧客の、人生におけるその出来事の「頻度」が一致する。

 

上に書いたことは、社会において望まない単純作業をやり続けている人の存在を肯定することになりかねない。

しかし、僕自身が意識する分には悪いことは無いだろうと思う。