その時になってみないとわからないけど
議論をしました
先日、色んな大学の人たちと「もし自分の子どもがダウン症だったらどうするか」ということについて議論しました。
僕の意見は「そもそもダウン症であることがわかるような検査はしない」というものです。
もちろん実際その時になってみなければわかりませんが、少なくとも今の気持ちはこれです。
その議論から派生して、「遺伝性の障害を持っている人同士が結婚した場合、その夫婦が子どもをつくることを規制するべきか否か」という議論になりました。
今回はこの議論に対する僕の意見を書きます。
人権のライン
「遺伝性の障害を持っている人同士が結婚した場合、その夫婦が子どもをつくることを規制するべきか否か」という命題に対する僕の答えは「否」です。
僕は基本的にどんな人も「生む権利」(と同時に生まない権利)が保障されるべきだと考えています。
その理由を以下に書いていきます。
先天的ラインと人為的ライン
何らかの理由で、個人の「生む権利」を規制するということは、「ここからこっちの人は生んでは駄目ですよ」というラインを引くことと同義です。
ではそのラインは誰が決めるのでしょうか。
恐らく多数決によって、「社会の運営上非効率的な要素」が決められ、その規準にそってラインが引かれるのでしょう。
すなわち、「障害」という先天的なものに見せかけていますが、実は「人為的」なラインなのです。
「障害を持っている」という規準は、社会や人が決めたものに過ぎないのです。
際限の無いライン
人が決めたものである以上、ラインの位置の後退、すなわち「正常であると」とみなされる人の人数の削減には際限がありません。
たとえ多数決民主主義化であっても、半数近い社会の構成員が「正常ではない」方に入るライン引きがされることさえあり得ます。
もちろん僕たちの社会が成り立つ為にはそうやってラインを引いて、「正常でないもの」を決定付けていくことが必要です。
しかし、僕はなるべく引かなくてもすむラインは最初から引かない方が良い、と考えています。
一度引かれたラインは必然的に社会を二分します。
そして、必ず「マイノリティー」を作り出します。
そうならないために、全てのラインを人が作り出したものであるということを自覚しながら、ラインを引かなくても社会が成り立つものに関しては現状維持をしていった方が良いのではないでしょうか。
ラインの位置を考えることを放棄するのではなく、わざわざマイノリティーをつくらないために、積極的に議論の俎上に載せいないのです。
今回の例の場合、僕は障害を持つ親からさらに障害をもつ子どもが生まれるても、社会は成り立つ、支えられると考えているため、わざわざラインを引く必要はないという結論に至ったのです。