「最近の起業家は気持ち悪い」ことはない。
人が書いた文章に対して何か書くことは普段はあまり無いのですが、昨日我が社の社長が読んでいた記事を覗き見たら、偶然最近考えていたことと繋がっていたので書きます。
半年前くらいにかなりバズッたこちらの記事に関してです。
-このブログの趣旨-
このブログが主張していることを簡潔にまとめると「日本の企業家はメディアに取りあげられるように自分をマネジメントすることはうまいけど、作りだすプロダクトはクソだ。そんなんじゃ世界的なサービスは生まれないよ。」というところだと思います。
大変有意な指摘だとは思うのですが、論点がちと気になるのと、非難されている学生企業家達がされっぱなしじゃ気の毒だと思ったので以下に簡単に諸々書きます。
-プロダクト幻想-
この記事は「プロダクトは性能さえ優秀であれば高確率で使われ、人口に膾炙する」という一貫した考え方の下で書かれています。
確かに、現在僕たちの周りで多くの人が使っているサービスや機器はそれらが優秀だから使用されているように見えます。
優秀で人々に必要とされなければ早々に淘汰されているだろう、と思えます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
私たちは自分が使うサービスを決める時に、「そのプロダクトが優秀だから」という理由だけで採用不採用を決定しているのでしょうか。
現実には必ずしもそうではないと思います。
例えば、テレビを例にとってみるとテレビが発売された当初は人々の購買意欲を喚起することはほとんどなかったそうです。
当時のテレビがプロダクトとして優秀ではなかったのかというと、そうでもないようです。
街頭テレビを設置すれば黒山の人だかりができるほどには人々の欲求を満たせるものでした。
しかし、発売当初そんなテレビが人口に膾炙することは無かったのです。
当時働き盛りだった世代の方に話を聞くと「ラジオもあったし、無ければ無いで問題なかった」と言います。
そんな状況が変わったのはマスメディアの影響に依るところが大きいと思います。
1950年代以降「家電(家庭電化)」「三種の神器」などキャッチーな言葉を生み出し、精神・物質的な豊かさとテレビなどの電化製品を結びつけ、象徴化していったのです。
ステレオタイプ的な豊かさのイメージは国民規模で敷衍され、人々は豊かさを求めて電化製品を買い漁るようになったのです。
また、電話に関しても私たちは当初、ほとんどの人がそれを受け入れることはありませんでした。
じわじわとユーザーが増え、ある一定数を超えたところで爆発的に普及したのです。
電話を持っているのが自分だけならこれほど不便で空しいプロダクトはありませんが、周りの人がみんな持っていればこんなに便利なものはありません。
電話が「なくても大丈夫」な時代から「ないと不便」な時代に変化したのだと思います。
長々と書きましたが、何が言いたいのかというと、”プロダクトが人口に膾炙するかどうかは必ずしもそのプロダクトが優秀であるかどうかに左右されない”ということです。
ここで重要なキーワードは「権威」と「ネットワーク外部性」です。
-権威とネットワーク外部性-
さて、話をこの記事が主に対象にしているweb系のプロダクトの話に戻そうと思います。
先に述べた通り、あるプロダクトが人口に膾炙するか否かを決定づけるのは必ずしもそのプロダクトの性能だけではありません。
特に、上に挙げた「権威」と「ネットワーク外部性」は大変重要な要因になると思います。
電話の例がわかりやすいのですが、主にコミュニケーションを目的としたプロダクトはいかに性能が優秀であっても周りの人が使っていなければ誰も使わないと思います。
周りの人とコミュニケーションをとることができるから使うのでしょう。
周りに使っている人が増えれば増えるほど既存のユーザーは正のフィードバックを受け続け、得をし続けます。
これを「ネットワーク外部性」と呼ぶそうです。
これはFacebookなどのサービスに関しても全く同じことが言えると思います。
Facebookのプロダクトとしての性能に満足している人は実はあまりいないのではないでしょうか。
わたしたちがFacebookを使用するのは、このサービスが私たちにとって最適・最上の性能を持ったサービスであるからではなく、周りの知人友人が利用しているからではないでしょうか。
多くの方にとってFacebookの使用目的は「知人・友人の近況を知るため、自分の近況を知らせるため、興味関心を共有すため」ではないでしょうか。
現代社会において周りの人が一斉にあるプロダクトを使い出す状況をつくりだす為には、一定の影響力を持った「権威」の力が必要です。
すなわち、メディアによって盛んに取りあげられ、人々の話題に頻繁にのぼる必要があるのです。
-「プロダクトが優秀だからみんなが使う」のか「みんなが使うから優秀なプロダクト」なのか-
さらに、僕はコミュニケーションを目的としたプロダクトに関しては「プロダクトが優秀だからみんなが使う」のか「みんなが使うから優秀なプロダクト」なのかは明確に区別できるものではないと思います。
たとえば、あるプロダクトを周りの知人が10人しか使っていない場合と100人が使っている場合ではその性能は大きく異なるでしょう。
プロダクトの基本性能、web系ならソースコードはほとんど変化していなくてもプロダクトが10倍優秀になる、ということが起こりうるのです。
具体的な例を示しますと、最近話題になった学生起業家のプロダクトで「すごい時間割」というものがありました。
あのサービスの基本性能に関して、僕は特に「すごい」とは思いませんでした。
目的とするサービス内容に関して、実装されている機能は可もなく不可もなくといった印象を受けました。(もちろんそのような規準まで実装を完了することの大変さは承知の上ですが)
しかし、アプリをダウンロードし、自分の時間割を登録して、知人とコミュニケーションをとりました。
僕がこのサービスを使用したのは、紛れもなくプロダクトが優秀だったからではなく周りの人が使っていたからでした。
「すごい時間割」の「すごい」点は”学生にとって周りの知人・友人がサービスを使用している状況”を作りだしたことではないでしょうか。
そのような状況はメディアに注目され、盛んに取りあげられること無しには成し遂げられなかったでしょう。
-まとめ-
「ネットワーク外部性」によって話題性とプロダクトの性能の境目がますます曖昧になっているwebの分野において、最初に挙げた記事の批判はちと的外れだと感じ、ここに書きました。
殊コミュニケーションを目的としたプロダクトにおいては、メディアに取りあげてもらうこともガリガリとコードを書くことと同様に「プロダクトの性能を上げる為の手段」として捉えてもおかしくはないはずです。
ここまで書いてきた通り、「プロダクトの性能さえ良ければ自然にバズって人口に膾炙する!」というの多分幻想です。
Facebookも最初は小さなコミュニティ内で「周りの人が当たり前のように使っている状態」をつくりだし、その規模を徐々に拡大させた事によって今の成功があるのではないでしょうか。
もちろん、プロダクトの基本性能と話題性が釣り合っているのに越したことは無いと思います。
プロダクトの基本性能が優秀→話題になってユーザーが増える→ネットワーク外部性によってプロダクトの性能がさらに優秀になる→話題になってユーザーが増える→・・・・というループが続いていくのが一番理想なのでしょう。
ではでは。