keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

「生の現実」は存在しない

タルドとリップマンの議論を用いながら、「公衆」という概念が現代社会においてどれほどの意味を持つのか考察したい。


「公衆」とは

タルドは新聞などのマスメディアによって結びつけられた人々は民主主義を司る集団としては理想的な「公衆」を形成すると論じた。

新聞のようなマスメディアが生まれる以前は、技術やインフラの限界により人々は同じ意識や情報を同時に共有できるのは多くてもせいぜい数十から数百人程度であった。

鉄道技術や印刷技術の発達によって新聞のように広大な地域の膨大な人々に同様の情報を届ける事ができるようになった。

人類史上始めて距離的条件を無視して人々の意識が繋がるようになったのである。

タルドはそこでは人々の共通意識と共通情報により民主主義としてより賢明な判断がなされるようになると論じた。

タルドは「公衆」は、たまたま、もしくは意図的に場所を共有して集団である「群集」のようにある偏向的な意識統一により暴走することもありえるが、「寓集」よりも冷静な判断を行うだろうと考えたのだった。

たしかに新聞などのマスメディアの登場によって私たちはかつてないほどの規模で情報を共有できるようになった。

遠く離れた人々と同じ知識を共有し、同様の議題に対して議論が行えるようになった。

しかし、私たちがマスメディアから得ている情報は本当に同様なものなのだろうか。

そして、その情報は本当に私たちの民主主義社会をより善い方向に導いているのだろうか。

恣意性の全く介在しない情報や、誰にとっても同様な「生の情報」など存在しないのではないだろうか。

 

「生の現実」は存在しない

我々が触れているマスメディアの情報には常に何らかの恣意性が介在している。

たとえば、極端な例を述べると、2011年フジテレビは自社を責め立てるデモが起こったときに他社の報道に関係なくその様子を報道を控えた。

「客観的事実を伝える事が仕事」と言われているテレビ局でも自社の利益を損ねるような情報を報道することは無いのである。

このように、メディアは人がつくりだすものである以上何らかの意思がそこには働いている。

「意思」を持たない人間が存在せず、私たちが情報を得る為に何らかのメディアを用いる限り本当の意味で「生の情報」に触れる事は永久にできないのである。

メディアは、そこに関わる主体が相互作用し合い媒介する情報を重層的に構築していく「場」なのである。

リップマンは私たちはそれぞれ「ステレオタイプ」を持っており「現実を知る前に現実をつくりだしている」と論じた。

私たちは現実を認識する時に自らの規準によって取捨選択して情報を認識しているのである。

誰しも都合の悪い事には耳を塞ぐし、自分にとって都合の良いものであれば誇張して聞こえてしまうものである。

また、同じ内容でも悪人がという印象を持っている者が言ったのと善人という印象を持っている者が言ったのでは前者は嘘に聞こえてしまうし、後者はもっともらしく聞こえてしまう。

私たちは常に何らかの規準を持って現実を認識している。

そしてその規準は私たちとメディアとの関わり合いの中で、日々改変されていくのである。

現代は「メディアが現実をつくっている」と言っても過言ではない状況なのである。

 

現実ではなく目標として設定する

このようにタルドの論じた「公衆」には確かに多くの限界が存在する。

しかし、現代はメディアの双方向性が拡大し、規準をつくる側とつくられる側の境が曖昧になってきている。

そんな状況の中で、どうすればタルドが標榜した「公衆」を形作れるのかを「現実」としてではなく「目標」として認識していく事が重要だろう。