keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

マスコミュニケーション研究批判

マスコミュニケーション研究の問題点と改善点をウィリアムズとマクルーハンの理論を援用しながら述べる。

マスコミュニケーション研究には3つ大きな特徴がある。

第一は、マスコミュニケーション研究はメディアを所与のものとして考える。

たとえば、電話が生まれ、ラジオが生まれ、テレビが生まれて携帯電話が生まれる、というようにメディア機器の変化をそこに介在する実践による相互作用の賜物ではなく、メディア進化論的に一方向に変化していくものであると捉える。

第二に、メディアが送り手と受け手を媒介する静的なものであると捉える。

そこではメディアは媒介する情報に何らかの影響を与える事もなく、送り手と受け手の間に介在して一義的に情報を伝えるものだと考えられる。

第三に、マスコミュニケーション研究は情報の送り手と受け手を明確に区別する。

そこには縦方向の関係があり、メディアを変えない限り送り手受け手関係が逆転する事はない。

 

確かに、普段の生活の中でも上に挙げたようなマスコミュニケーション論はメディアを的確に捉えているように思える。

例えば、テレビやラジオは情報の発信者が発信した事をそのまま伝えてくれているように見えるし、インターネットのサイトはそれを作った人の意図を明確に反映しているように見える。

そして、メディア進化論的なメディア機器の変化に対する視点も自然であるように感じる。

実際私たちの身の回りに存在する機器群は私たちの科学の進歩と並走するように進歩してきたように見える。

しかし、そのようなメディア観はメディア実践の成り立ちや機器の選択に対する制限を隠蔽してはいないだろうか。

 

まず、私たちを取り巻くメディア環境が何らかの権力や恣意性無しに進歩してきたものとは言えない。

例えば、日本人にとってテレビは1950年代ころまではあまり必要なものとは考えられておらず、新聞やラジオによって事足りていた。

しかし、マスメディアによる恣意的な煽動により、テレビを持つ事がアイデンティティと結びつけられ、テレビを持つ事がパーソナリティー的なアドバンテージとなる時代が到来した。

「家庭電化」、「三種の神器」といった流行語と共にテレビが経済的、精神的豊かさの象徴とされてされていったのである。

そこには明らかに商業的恣意性が介在しており、人類の集団的技術進歩の結果として現在のメディア環境があるとは言えないだろう。

 

そして、マクルーハンが「メディアはメッセージである」と指摘したように、メディアはそれ自体が媒介する情報の持つ意味を変容させる力を持つ。

メディアとメディアが媒介する情報が重層的、相互作用的に意味を造り出すのである。

たとえば、同じ著者が全く同じ内容の文章を書籍とインターネットを用いて発信したとする。

それを読む側は、書籍であれば気を引締めて情報を相対し、神経を集中させてその内容に対する理解を深めようとするかもしれない。

一方インターネットによってその情報に触れた場合は、膨大な情報の一欠片として流し読んでしまうかもしれない。

このように、全く同じ文字列でもメディアが異なればそこに織りなされる理解と受容のプロセスも異なってくるのである。

メディアはそこに関わる主体によって形を変え、それが媒介する情報の意味も変化させていく、記号の複合体なのである。

 

現代ではメディア通した情報の送り手と受け手という立場がますます曖昧になってきている。

例えば、インターネットを用いた動画の生放送の配信においては番組のパーソナリティーが視聴者からソーシャルメディア伝いに届けられた意見をその場で採用し、番組内容を変更していくことも珍しくない。

このような現象は発信から変化までの速度は異なるものの、ラジオ放送の時代から放送者と視聴者からの手紙という関係を通して往々にして存在したはずである。

 

以上のようにマスコミュニケーション研究は多くの限界を孕んでいる。

ウィリアムズが指摘したようにメディアを自明なものとして捉えたり、固定化されたもの、透明なものとして捉える事はその存在を裏付けている構造に疑いを持つ事を妨げ、そこで織りなされている相互作用を私たちの視界から奪いさってしまう。

メディアを流動的なものとして捉え、これまでメディアがどのような恣意性によって構築され、そこでどのような相互作用が生まれて情報が変容していったのかを明らかにすることで、これからの私たちのメディアを創りだしていく事が重要だろう。