keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

性善説と性悪説どちらを信じれば良いの?

なぜ今更この議論なのか
題名を読んだ方は孟子・旬子の時代から議論されて来たこの話をなぜ今更持ち出すんだ、と思うかも知れませんね。
まあなぜこのテーマを選んだのかというと、最近僕は社会問題や自分の価値観の問題など様々な分野の議論が「性悪・善」説の議論に絡んでいるなーと思うからです。
例えば、経済理論に関して自由主義を支持するか保護主義を支持するかというのは人間が生来自らを律する能力を持っているか=性善であるかどうかという議論を内包していると思うのです。
人間が生来善であるか悪であるかという議論はかなり根本的なテーマを扱っているので、このテーマを深く掘り下げておく事はその他の様々な発展的議論を行う上で大変有意義だと思うのです。




定義を確認

性善説性悪説ともに何となく定義のイメージはあるのですが、一応定義を確認してみました。
まず「性」というのは人の生まれながらの本性や本質の事。
つまり「性」は字義的には人間の生まれながらの心という事ですね。
で、性善説の方は読んで字の如く、人間は生まれたときから善なる心を持っているという考え方です。
中国の孟子という人が主となって唱えた理論です。
さらに孟子はその善なる心は生後の努力によってさらに改善、発展できると考えました。
一方性悪説は中国の思想家旬子が孟子に対抗して唱えた理論で、人間の生まれたときの心は悪であると言っています。
性悪説というと字面から誤解されやすいのですが、旬子は、人間は生まれた時の心は悪だが生後の努力よって善なる心を持ちうると言っているんですね。
つまり、性善説性悪説もスタート地点は違うものの「人間は努力によって善なる心を持ちうる」と説いているという事です。




僕はこう考える
さて、そろそろ議題の答えを出そうと思います。
既に書いたように性善説性悪説も人間は後天的な努力によって善なる心を手に入れられる存在であると定義しています。
努力によって誰でも等しく自らを向上、改善できると聞くとなんだか良いイメージですね。
性善説性悪説どちらを信じていてもあまり関係ないのかもしれません。
恐らく日常暮らしていく上ではほとんど差は無いと思います。
しかし僕は性善説を支持します。
その理由として大きく2つの事が挙げられます。
1つめはかなり主観的ですが、人間が「性悪」だと僕が困るからです。笑
僕は人との「対話」を人生の一つのテーマとしていて、人間が生まれてから身につけて来た「虚栄」や「いらぬプライド」を脱ぎ捨てていった結果どんな人同士も対話が出来ると考えています。
対話とはそんな風に自分の心から湧き上がって来た感情や言葉を伝え合う事です。
そのような「対話」を色んな人としたいですし、色んな人が出来るようになったら良いなと思っています。
対話は普段の僕たちの状態から何か脱ぎ捨てないと入る事が難しい状態だと思います。
だから、性悪説の理論によると対話を行っている時の僕たちはいつもよりお互い悪に近い心で対話している事になります。
それはなんだか嫌です。笑


2つめは性善説性悪説のどちらを信じた方が世の中が良くなるのかという問題と絡んでいます。
今あなたの側にいる人の本来の心が善であると考えるか悪であると考えるか、どちらが気持ちいいですか?
きっと善であると考えた場合だと思います。
そう書くと、「そんな事言ってもビジネスの現場なんかだと相手の本性が悪だと思ってかからないと損をするよ」このような事を思われる方もいるかもしれません。
それでも僕は性善説を支持します。
なぜならそうした方が世界がより良くなると思うからです。
どう「良くなる」のかというと、例えば世界に存在する武器も減るでしょうし、紛争も無くなると思います。
疑いの余地がないので物事がスムーズに進むようになると思います。
もし世界のみんなが性善説を信じたら、こう考えるとなんだかワクワクしませんか?
もちろん非現実的な話である事は重々承知しています。




パスカルの賭け
ここで一つの考え方を援用しておこうと思います。
「人間は考える葦である」という言葉で有名なパスカルが編み出した「パスカルの賭け」という考え方があります。
パスカルは神が存在するのかどうかという議論の中で、「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」と考えました。
少し説明すると、パスカルは「神の存在そのものはどちらでも良いが、神の存在を信じていれば神の加護を受けられるし、もし存在しなくても信心によって心の平安は保たれるし、毎日幸せに暮らせる。すなわち何も失うものは無いのだから、神の存在を信じた方が得だ!」と考えたようです。
これを性善説の場合に適用すると、信じる事で何も失う事は無いとうわけではなく、多少のリスクは背負う事になります。
もう少し言うと、「性善説を信じていれば、もし正解だった場合は人々が信じ合ってどんどん素敵な世界になっていくし、もしあっていなくても多少裏切られる事はあるかも知れないけど、信じていない時よりは世界が輝いて見える」抽象的ですがこんなところでしょうか。
僕は多少のリスクを背負ってでもより性善説を信じ、より善い世界を目指したいです。
リスクをとらなければ恐らくこの世界は永久に善くならないのではないでしょうか。
少し論理が飛躍しているかもしれませんが、僕はそう考えます。
ではでは。