keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

自由競争を標榜する人の論理的矛盾

 

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最近選挙が近づいてきたということもあり、僕の周りで対面•webを問わず政治論議が盛んになっています。

経済や貿易に関する議論は大抵の場合解放か規制かという議論に収斂していくわけですが、その中ですごく違和感を感じることがあります。

 

経済•貿易論議において、新自由主義を標榜し、市場開放•規制緩和を唱う人は二タイプに分けることができます。

一方は、「現行制度のせいで自分の力を存分に発揮することができない。自分自身のためにも社会のためにも規制を緩和して、もっと広い世界で自分を活躍させてくれ!」という、自分の力を発揮するために市場解放•規制緩和を叫ぶAタイプ。

もう一方は「自分が今不幸なのは、規制や既得権益を享受している旧世代のせいだ!市場を解放して既得権益者に市場から退場してもらおう!」という、自分の人生がうまくいってない要因を規制や既得権益に求めるBタイプ。

 

僕はAタイプに関しては、議論の是非はともかく、論理的には説得されます。

「規制があること」と「あなたが不幸なこと」が確かに論理的に整合性を以て結ばれているからです。

ただし、Bタイプに関しては論理的不調からくる違和感を感じてしまいます。

「規制があること」と「あなたが不幸なこと」が必ずしも結びつかないからです。

確かに、市場が解放され、規制が緩和されれば既得権益者は市場から退場させられるかもしれません。

しかし、そのことがイコールあなたが幸せになることには結びつきません。

市場開放•規制緩和によって期待されるのは、「あなたの幸福」ではなく「既得権益者の不幸」だけです。

 

Bタイプは市場開放•規制緩和が達成されたとしても、「自分の不幸の原因を外部に求める」という思考法を続けている限りは幸せになれないと思います。

Bタイプの考え方は、自己責任を徹底的に求める市場原理主義新自由主義に最適化されたものではないからです。

ここにBタイプの論理的瑕疵があります。

現在、自分が幸福ではない原因を外部化しているにも関わらず、因果の帰結点の個人への徹底的な内部化を求める新自由主義を標榜してしまっているのです。

 

僕はBタイプの人たちは、「失敗を誰かのせいにできる」現行の社会制度の方が幸せでいられるのではないか、とすら感じます。

何らかの理由で、失敗の原因を内部化できない人がいることは理解できます。僕自身にもそういった面が多分にあります。

ただ、そういう人が新自由主義を標榜していることがどうも理解できないのです。

自分の思考法と、理想とする社会像に矛盾はないか、点検することの重要性を感じます。

 

※ちなみに、僕自身は大きな政府寄りの考え方を持っています。その件については別途書きます。

 

日本人が失敗に寛容になる日はくるのか

 

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ベンチャー界隈では、「シリコンバレーの人たちは失敗にとても寛容だ。日本人もそのようにマインドセットを変えていった方が良い。失敗を恐れずにドンドン挑戦していくべきだ。」といった言説をよく聞きます。

そのようなことが本当に可能なのか、考えてみました。

(一回も行ったことはありませんが)シリコンバレーの人たちが失敗に寛容だと言われる理由は、多く失敗している人ほど体験から多くのことを学んでいるはずなので、次の行動の成功確率は上がるだろういう希望的観測からきているそうです。

一方で、僕たちにとっては「一度失敗した人」は「また失敗そうだ」と感じてしまうのが一般的な感覚ではないでしょうか。

確率論的に考えると、互いの事象が独立である場合、「試行A」の結果が「試行B」の結果に影響を与えることは有り得ません。

しかし、なんだか僕らには二事象間の結果に関係があるように思えてしまいます。

その「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」が日本人の失敗への不寛容さを生み出しています。

 

僕は、その「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」が、いわゆる「ご縁思想」と密接に結びついていると考えています。

「ご縁思想」とはちょっとした出会いや気づきでも”袖触れ合うも他生のご縁”と思って大事にしよう、という考え方です。

この考え方によって救われた経験がある人は少なくないのではないでしょうか。

僕も偶然の出会いにご縁思想が相まって素敵なことが起こったことが何度かあります。

この、「ご縁思想」は先程言った「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」が生み出しているのではないかと僕は考えます。

これに関連して、面白いエピソードがあります。

第二次大戦まで日本海軍は一度沈没してしまった軍艦の名称を「縁起が悪い」と言って二度と使用しなかったそうです。

一方で、アメリカやイギリス海軍は軍艦に同じ名称を何度もつけています。

 

さて、ここで重要なのが一体何が「独立な事象間に結果の因果があるように感じる感覚」を生み出しているのか、ということでしょう。

(ここでは、シリコンバレーの方の思想について深くは考察しませんが、近代科学観や唯物史観が影響を与えていると思います)

由来のひとつは、仏教思想だと思います。

”袖触れ合うも他生のご縁”の"他生"とは、仏教的輪廻観でいう「前世」や「来世」を指すそうです。

”現世で袖が触れ合っただけの関係でも、ご縁によって前世や来世で何か関わりがあるのですね”ということです。

そもそも「縁起」は仏教の根幹をなす思想ですしね。

ただ、多くの現代人にとってはこの説明はあまりピンとこないかもしれません。

 

由来のもう一つは、自然災害だと思います。

知っての通り、日本では地震、洪水、台風、雷、津波など多様な自然災害が襲ってきます。

哲学者の萱野稔人さんは、日本に革命が無いのは自然災害が革命のような役割を果たしているからだ、と論じています。

それほど自然災害は私たちの社会を物理的にも制度的にも大きく変えてきました。

そのような、超人為的(SuperではなくTranscend)な力によって人生を翻弄されてきた結果として、私たちは因果に絡む人為以外の何らかの力を無意識的に受け入れるようになっていったのではないでしょうか。

 

以上述べてきたように、日本人が失敗に不寛容である「独立な事象間に結果の因果があるように感じる」マインドセットは「ご縁思想」というとてもありがたい思想とセットになっています。

そして、自然災害という抗いようの無い環境要因に由来しています。

だから、変えることはなかなか難しそうだぞ、というのが今の結論です。

 

歴史の不確かさ

 

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現在存在する政治論争の多くは、過去に起こった出来事や、過去から現在に残された記録に関する争いであると思います。

領土問題、憲法問題、歴史認識問題、etc...

 

たとえば竹島の領土問題に関しては、「大韓地誌」から「サンフランシスコ平和条約」にいたるまで、様々な”文書”の”解釈”を巡ってもめているとも見ることができるわけです。

日本と韓国のどちらも自分たちの主張、認識が正しいと考えて、争っています。

しかし、ここで一つの疑問が湧いてきます。

「本当に正しい歴史認識は存在するのか」ということです。

その時代に生きた人、その現場に立ち会った人がいない以上、僕たちの歴史認識は文字等による伝聞に頼る他ありません。

 

中島敦の短編「文字禍」で、書物に絶対の信頼を置く老博士に若い歴史家はこう訪ねます。

”歴史とは昔あった事柄をいうのであろうか?それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?”

現在、政治論争に参加しているほとんどの人は後者の歴史認識を持っていると僕は感じます。

その人たちは自分が生まれ育ち、慣れ親しんだ文化の下で、書物が揺るぎない「事実」を記していると信じています。

 

しかし、誰も過去の事実を知り得ず、また事実を確かめる方法が無い以上は、自らの主張が絶対に正しいと言い切ることはできないのではないでしょうか。

双方が持論に普遍性を認め、その正しさを主張しあっていては永久に問題が解決する日は訪れないと思います。

あくまで、自分の意見がある記録に対する、「ある解釈」基づいて構成されていることを認識すべきだと思います。

 

”文書に対する解釈は、その人が立つ立場によって大きく変わってくる”

この認識を持たない限りは、政治論争は不毛な感情論に終始してしまうと思います。

カール・マルクスは”存在が意識を規定する”と言いました。

自らが、ある都合や利益の為に、「ある解釈」を採用していることを認めること。

そして、論争の相手もまたそういった機構によって動いていることを認知し合うことが重要なのではないでしょうか。

そのことが、政治論争を不毛な感情論から、理知的な本質論に変えると僕は思います。

 

僕が具体的な政治問題についてブログであまり語らない理由はここにあります。(Twitterなどでは語りますが)

日々とっても頭の良い人たちが、知恵を絞って政情を分析し、その解決策を示しても物事が解決しない理由。そのことにこそ焦点を当てたいのです。

疑うということ

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一秒の新基準が決まったとちょっと前の新聞に書いてありました。
http://www.asahi.com/science/intro/TKY201211010717.html
どうやら、その計測法によれば宇宙創成時から現在までを計測しても一秒のズレもでないのだそうです。

一秒の長さが変われば、当然一分、一時間、一日、一年、そして人の一生の長さも変わってきます。
僕たちが普段当然のように使っている一秒という時間の単位、これが人によって定義されたものに過ぎないということですね。

数学者の岡潔氏が小林秀雄氏との共著『人間の建設』で、”「1」というものの定義はまだだれもできていない。ただ、生まれて初めて意識をもって、自分の身体を動かした時の身体感覚を覚えていて、それを「1」と表現しているだけなのだ。”
こう言っていました。

また、加藤周一氏は”世界の中で消えるほど小さい、個人の意識が全世界に意味を与える。一人の人間が全世界に意味を与えることができるのだ。”と言っていました。

僕たちが自明視しているもので、実は定義が曖昧なものって実は沢山あると思います。
だから、物事がなんだかしっくりこない時には、とことんまで疑ってみるのも手だと思います。
特に先の「1の定義」レベルの問い、例えば「幸せ」の定義とか、「私」の定義とかを考えてみると、「1秒の定義」が変われば「一生の定義」が変わるように、世界全体の見え方が変わるということがあるのではないでしょうか。
誰にでも、自分が見ている世界を形づくるいくつかの礎があるはずなので。

何を言いたいかというと、「世界」は案外ぐにゃぐにゃと柔軟で動的なものですよと。
あなたを苦しめるものがあればそれを消してしまうこともできますよと。

(サルバドール・ダリ「記憶の固執」)

何を教え、何を教えないべきか

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僕は今、伊豆市で小学1年生から高校一年生までの子どもたちに勉強を教えています。

現在はほとんど学習指導要領に沿ったことを教えているのですが、「勉強」というものに関して悩むことが多々あります。

一昔前に比べて、所謂「勉強」の社会におけるわかりやすい有用性は随分縮小していると思います。

 

よく言われることですが、高度成長期前後であれば、真面目に受験勉強をして良い大学良い企業に入れば「日本型経営」の下、一生安泰で暮らせました。

しかし、そんな時代も終わりを遂げ、どんなに勉強しても安定が約束されることは無い、そんな社会になりました。

そんな社会の中で、僕たちが子どもに教えるべきことは何なのでしょうか。

 

僕はそんな時代への一つの対応として、子ども達にいわゆる「勉強」を教えないという選択肢があると思います。

 

これからの日本社会は大きく二つの趣向を持った人に分かれると思います。

一つはグローバルな舞台で、諸外国のプレイヤーと競争しながら生きていこうとするタイプ。

もう一つはローカルかつスモールなコミュニティーで自活しながら生きて行こうとするタイプです。

子どもが後者を好み、またそうした生き方をしたいと望んだ場合、果たして「勉強」を教える意味はあるのでしょうか。

 

たとえば、ある漁村の中学校に一人の漁師の中学生の息子がいたとします。

その子は毎日朝早くから父親に連れられて漁師の仕事を教わっています。

海に出た後学校に通っているので、その子は当然授業中に眠くなって、居眠りをしてしまいます。

寝ているその子を見て、先生がとる対応には二つあります。

ある先生はその子を起こして、授業を聞かせます。

そして、ある先生はその子が早朝から漁に出ていたことを知っており、起こさずに寝させてあげます。

 

この二人の先生の対応のどちらが正しいのでしょうか。

僕はすごく難しい問題だと思います。

一般的には前者の先生の対応が当たり前だと思います。

しかし、前者の先生がしたことは本当に正しいことなのでしょうか。

 

この子はきっと数年後には立派な漁師になって、中学校で教わったこととは全く無縁の生活をすることになります。

自分がやるべきことが明確で、人から必要とされる漁師になれば、その子の人生は満ち足りたものになるでしょう。

後者の先生に対して、「こどもの可能性を奪っている」という批判があるかもしれません。

しかし、「勉強」を教えることによって、グローバルな環境に放ち、激しい競争の中に放り込むかもしれないのです。

ローカルな環境で、居場所が確保された道を歩ませるか、グローバルな環境で戦える武器を与えて競争環境に放り込むか。

僕にはどちらが正しいことなのかはわかりません。

(もちろん、これまでの話は今後も世界が資本主義の下、今と同じ価値規準で動いていくという前提があってのものですが)

 

ただ、今思うことは、数学や英語、物理、歴史などに関しては純粋に知的好奇心の対象として面白いものですし、学んで後悔するものではないと思うので、これからも教えていこうということです。

小学1年生関わるということは、それなりの影響をその子の人生に与えるということで、それなりの責任と義務があります。

今後も考え続けていかなければならないテーマです。

 

(絵は「フランダースの犬」でネロがめっちゃ見たがっていた「聖母被昇天」です)

 

死ぬ準備はできておりません

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実は昨日思うところがあって、白血病の血液検査をしてきました。

風邪っぽい症状に加えて、リンパの腫れと関節の痛み、さらに足に覚えの無いアザができていたからです。(今思うと、アザ以外は全て風邪の症状ですね。でも、不安だったのです。)

結果は、「いたって健康」だったわけですが、検査結果を待つ約24時間の間に考えたことを記しておきます。

 

 

「もし自分が白血病で、余命宣告でもされたらどうしよう」と考えましたが、想像もできません。

自分の人生がここで終わってしまうなんてとても想像できませんでした。

 

マハトマ・ガンジースティーブ・ジョブズは「明日死ぬと思って生きなさい」と言いました。

本当にそんなことができるのでしょうか。

もし自分が明日死ぬと思って生きていたら、こうやってPCの前にはいないで、好きな人やお世話になった人のところに飛んで行って、感謝の気持ちを伝えたり、そういった命の使い方をしているでしょう。

 

かといって、永遠に生きることができると思っているわけではありません。

もし自分が永遠に生きることができると考えているとしたら、毎日をもっと漫然と過ごして、こうして”自分が生きた痕跡”を残そうとすることも無いでしょう。

 

僕を含めて、ほとんどの人は、「明日死ぬかもしれない。でもきっと死なない」という感覚で生きているのだと思います。

自分の命に対峙する感覚として、「刹那」と「永遠」の間を行ったり来たりしながら、心の安定を保っているのだと思います。

 

ただ、現代はそうした命に対峙する感覚が「永遠」の側に引き寄せられつつある時代だと感じます。

僕たちは、病気だったりお墓だったり産婆だったり身の回りにある「死」を意識させるものを、自分から離れたところに追いやってきました。

「死」を遠くに追いやりすぎると、死んでしまう恐怖は緩和されるかも知れませんが、刹那的であるからこその「生」の喜びも希釈されてしまうと思います。

 

先のガンジーのことばには、実は続きがあります。

「明日死ぬと思って

 生きなさい。

 永遠に生きると思って

 学びなさい。」

 

明日からも「明日死ぬかもしれない。でもきっと死なない」そんな生活を、「刹那と永遠」のバランスをとりながらしていくことになるでしょう。

 

(写真はエドヴァルド・ムンクの「マドンナ」。生きているようだけど、死んでいるようでもある、そんな絵画ですね。)

あんな先輩にはならない

ふわっとした文章なので、ご自由に想像しながらお読みください。


「あんな先輩にはならない」とか「俺らの代からは変えようぜ」ということば、誰もが一度は聞いたことがあると思います。

このことば、きっと何十年も昔、もしかしたら何百年何千年も昔から言われ続けているのかもしれないな、と思います。

なぜなら、冒頭のことばを言っていた人たちの多くが時を経て、同じことばを言われる立場へと変化しているからです。

なぜ彼らは冒頭のことばの通りに行動しなかったのでしょうか。

理由のひとつは、制度がいわゆる「先輩」にとって居心地がよく、都合が良いように設計されているから。

制度や仕組みをつくるのは多くの場合「先輩」です。

「後輩」だった時には憎らしかった制度も「先輩」になった瞬間に保守すべき対象へと変わります。

もうひとつの理由は、「ここまで自分たちは耐えて頑張ってきたんだから、楽しても良いだろう」という気持ちが、行動の変化に正当性を与えてくれるから。
心と環境の双方から後押しを受けて、抗うことができる人は多くないのかもしれません。 

そうして人は変わっていくのでしょう。

こういった現象は社会の随所に存在します。

一面では、この「先輩後輩構造」によって社会の均衡が維持されている、という見方もあるでしょう。

しかし、実社会では、「先輩後輩構造」の維持にコストがかかる、「先輩後輩」間の権利に不均衡がある、「先輩後輩」の絶対数が不均等であるetc.....社会そのものの存立を危うくするような 場面が多々あります。
 

ひとつ僕が言いたいのは、「先輩の立場にあぐらをかく前に、先輩後輩関係なく、みんなが幸せになれる方法を一緒にめいっぱい考えてみませんか」ということです。

誰かがどこかで変わらない限り、構造の連鎖は続き、破綻にいきつきます。

諸先輩方が今まで努力してきたことも事実ですから、僕はあまり強いことは言えないのかもしれません。

しかし、「今まで頑張って耐えてきた」ことは「後輩」たちを苦しめることを正当化する根拠にはなりません。

僕もいずれは先輩の立場にあぐらをかいてしまうかもしれない。

だからここで宣言して、自分の弱さやその他色々になんとか抵抗したいです。
「あんな先輩にはならない」。