keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

顧客と供給者の出来事頻度

最近、結婚式の二次会会場を手配する用事があって、いくつかの店舗に説明を聞きにいった。
そのうちの一つの店舗で、店長さんが「私はすでに2000件以上の二次会をプロデュースしているので、どうぞ安心してください」という謳い文句で宣伝をしてくれた。
彼は数千件の二次会をプロデュースした事実を彼の店舗と彼自身の信用度を上げる要素として挙げてくれたのだと思う。

しかし、僕はそのことばに違和感を覚えた。

「こちらにとっては一生に一度のイベントだとしても、あちらにとっては数千分の一の出来事に過ぎないのか」と。

 

顧客の一回性と供給者の反復性のズレは産業化社会が背負う宿命なのだろう。

僕たちがフォーディズムや役割分業を採用した時点で、「ある分野にスペシャリストが生まれ、ある作業を反芻することになる」ということは宿命づけられていた。

このようなズレは様々な分野に立ち現れている。

冒頭の店長の場合は、「イベント当日のある一時点」、時系列上の一時点においては顧客はたしかに一人だけである。

一方、教育などはもっと極端で、時系列上のある一時点において、一人の先生が複数の生徒を相手にすることになる。

役割分業によって家庭が教育を担う役割を放棄し、教育機関に預けることによって、「生徒にとっては一生に一人の先生、先生にとっては複数の生徒のうちの1人」という状況が発生する。(教育を産業として見ることには抵抗があるが、確かに役割分業が招いた現象がここにはある)

 

そういった状況は相互の意識のズレを生み出し、顧客の満足度を下げる。

供給者側の「数千分の一の顧客」に対する意識は必ず顧客へ伝わっている。

この状況を改善する鍵は、供給者が顧客をどれだけ「一人の人間」として見ることができるのかということに関わっていると思う。

供給者が、一人の人を「顧客」として見た場合はその人は数千分の一の存在に過ぎない。

しかし、その人を一人の「人間」として見ればその人は唯一無二の存在に変わる。

その時その瞬間のその人はもう二度と現れない。

この時、初めて供給者と顧客の、人生におけるその出来事の「頻度」が一致する。

 

上に書いたことは、社会において望まない単純作業をやり続けている人の存在を肯定することになりかねない。

しかし、僕自身が意識する分には悪いことは無いだろうと思う。  

 

幸せとは何か

-色んな人の定義-

幸せとは何か、ということを最近よく考えます。

理由は色々とあって、たとえば久しぶりに会った人が僕の価値観からすると全く幸せでない暮らしぶりをしているのに、すごく幸せそうにしていたり。

そういった時に、幸せって何だろうってすごく考えさせられます。

過去、何人もの学者や思想家や宗教家が幸せとは何かという定義について、一般性もしくは普遍性を持たせるような努力をしてきました。

それほど幸せというものが人間の根幹に関わるものなのでしょう。

僕は、自分が今までに触れてきた、そういった定義の中では社会学者の見田宗介先生のものが一番しっくりきました。

 

-幸せの三つの軸-

見田先生は人が幸福を感じる時(正確には対自欲求、すなわち自分がこう有って欲しいという欲求が満たされるとき)には三つの軸が必要だと説いています。

まず一つ目は「創造」です。自分が物質的であったり概念的であったりする、何らかのものをつくり、それを認知することで幸福を感じるのです。確かに、芸術作品だったり、会社だったり、政治だったり何かを成し遂げた人は満足そうな顔をした人が多いですよね。

二つ目は「統合」です。人は自分が過去に成し遂げてきたものを振り返って、幸せを感じるのです。一時一時の「創造」の積み重ねは、時が経つにつれてその人の幸福感を増幅させるのでしょう。

そして、三つ目は「愛」です。人は自分が愛する人に愛されていることを実感することで、幸せを感じるのです。

 

-すべては相対化できる-

見田先生の言う三つの軸が満たされたときに人は本当に幸せを感じるのかというと、必ずしもそうではないのかもしれません。

時間や価値観という評価基準を導入すると、全ての軸は相対化されてしまうのです。

たとえば、どんなに立派な成果物も時間が経てば全ては砂塵に帰してしまいます。

どんなに素晴らしいと思える芸術作品も、ある時代のある人々にとってそうであるにすぎません。

そして、永遠の愛など存在しないのかもしれません。

というか、そもそも幸福という感情そのものが脳が作り出した疑似環境に生じた表象に過ぎないのです。

そうやって全てを相対化していくと、この地球上に本当に幸せな人なんて誰もいないのかもしれない、と思えてきます。

 

-幸福の相対性をどう乗り越えるか-

しかし、そうやって日々を生きていくことは往々にして、虚しく、苦痛です。

せっかくの一度きりの人生ですから、幸福の相対性を乗り越えていかなければなりません。

僕自身もまだ答えを出せてはいませんが、いくつか幸福の相対性を乗り越える手段を考えました。

まず一つは、考えることをやめてしまうということです。その一瞬一瞬に集中するのです。さきほど、幸福という現象が時間や価値観によって積分することによって相対化されてしまったのに対して、微分を行って、意図的に一瞬の現象を世界の全てにしてしまうのです。考えてみると、その日その日を感情のままに生きる、といったような生き方をして幸せそうにしている人が結構多いことに気がつきます。

もう一つは、幸せの規準を絶対的な普遍性に任せてしまうという手段です。これは簡単に言うと宗教ですね。幸せとは何なのか、ということについて自分では考えることをやめ、自分が信じる絶対的な存在(とするもの)に任せてしまうのです。この方法をとっている人は、言うまでもなく、数でいうとめちゃくちゃ多いですね。

そしてもうひとつは、自分が幸せなことにしてしまう、決めつけてしまう、という方法です。これは一つ目と二つ目の方法の中間といったところでしょうか。たとえば自分の人生というスパンで、「これを成し遂げられたら自分は幸せ、こういう時は自分は幸せ」という定義を自分で決めて、それ以上は考えない、という方法です。自分自身の中に普遍的な価値規準(神)をつくる方法、とも言えるかもしれません。

 

-つらいけどもうしばらくは-

人は自分が幸福であると信じたいものだと思います。

だから、人生の有限性や他者の価値規準は横に置いておいて、上に書いてきたような方法を採用するのだと思います。
自分自信にとっての幸せとは何か、ということを考えるのは辛いものです。

少なくとも、それを考えているということは、完全に幸せとは思えていないということですし、考えた結果として必ず幸せになれるとは限りません。

ですが、僕はしばらくはこのまま悶々と考え続けたいと思います。

上記の方法を採用して、幸せを感じている人を否定するわけではありませんが、少なくとも現状の自分が上記の方法を採用してしまうことは「幸せではない」のです。

今後も、ニヒリズムの陥穽に落ち込まないように気をつけながら「幸せとは何か」ということについて考え続けていこうと思います。

 

その時になってみないとわからないけど

議論をしました

先日、色んな大学の人たちと「もし自分の子どもがダウン症だったらどうするか」ということについて議論しました。

僕の意見は「そもそもダウン症であることがわかるような検査はしない」というものです。

もちろん実際その時になってみなければわかりませんが、少なくとも今の気持ちはこれです。

その議論から派生して、「遺伝性の障害を持っている人同士が結婚した場合、その夫婦が子どもをつくることを規制するべきか否か」という議論になりました。

今回はこの議論に対する僕の意見を書きます。

 

人権のライン

「遺伝性の障害を持っている人同士が結婚した場合、その夫婦が子どもをつくることを規制するべきか否か」という命題に対する僕の答えは「否」です。

僕は基本的にどんな人も「生む権利」(と同時に生まない権利)が保障されるべきだと考えています。

その理由を以下に書いていきます。

 

先天的ラインと人為的ライン

何らかの理由で、個人の「生む権利」を規制するということは、「ここからこっちの人は生んでは駄目ですよ」というラインを引くことと同義です。

ではそのラインは誰が決めるのでしょうか。

恐らく多数決によって、「社会の運営上非効率的な要素」が決められ、その規準にそってラインが引かれるのでしょう。

すなわち、「障害」という先天的なものに見せかけていますが、実は「人為的」なラインなのです。

「障害を持っている」という規準は、社会や人が決めたものに過ぎないのです。

 

際限の無いライン

人が決めたものである以上、ラインの位置の後退、すなわち「正常であると」とみなされる人の人数の削減には際限がありません。

たとえ多数決民主主義化であっても、半数近い社会の構成員が「正常ではない」方に入るライン引きがされることさえあり得ます。

もちろん僕たちの社会が成り立つ為にはそうやってラインを引いて、「正常でないもの」を決定付けていくことが必要です。

しかし、僕はなるべく引かなくてもすむラインは最初から引かない方が良い、と考えています。

一度引かれたラインは必然的に社会を二分します。

そして、必ず「マイノリティー」を作り出します。

そうならないために、全てのラインを人が作り出したものであるということを自覚しながら、ラインを引かなくても社会が成り立つものに関しては現状維持をしていった方が良いのではないでしょうか。

ラインの位置を考えることを放棄するのではなく、わざわざマイノリティーをつくらないために、積極的に議論の俎上に載せいないのです。

今回の例の場合、僕は障害を持つ親からさらに障害をもつ子どもが生まれるても、社会は成り立つ、支えられると考えているため、わざわざラインを引く必要はないという結論に至ったのです。

「最近の起業家は気持ち悪い」ことはない。

人が書いた文章に対して何か書くことは普段はあまり無いのですが、昨日我が社の社長が読んでいた記事を覗き見たら、偶然最近考えていたことと繋がっていたので書きます。

半年前くらいにかなりバズッたこちらの記事に関してです。

 

最近の起業家は気持ち悪い、そしてそもそも起業家ではない。

 

 

-このブログの趣旨-

 

 

このブログが主張していることを簡潔にまとめると「日本の企業家はメディアに取りあげられるように自分をマネジメントすることはうまいけど、作りだすプロダクトはクソだ。そんなんじゃ世界的なサービスは生まれないよ。」というところだと思います。

大変有意な指摘だとは思うのですが、論点がちと気になるのと、非難されている学生企業家達がされっぱなしじゃ気の毒だと思ったので以下に簡単に諸々書きます。

 

 

-プロダクト幻想-

 

この記事は「プロダクトは性能さえ優秀であれば高確率で使われ、人口に膾炙する」という一貫した考え方の下で書かれています。

確かに、現在僕たちの周りで多くの人が使っているサービスや機器はそれらが優秀だから使用されているように見えます。

優秀で人々に必要とされなければ早々に淘汰されているだろう、と思えます。

しかし、本当にそうなのでしょうか。

私たちは自分が使うサービスを決める時に、「そのプロダクトが優秀だから」という理由だけで採用不採用を決定しているのでしょうか。

現実には必ずしもそうではないと思います。

例えば、テレビを例にとってみるとテレビが発売された当初は人々の購買意欲を喚起することはほとんどなかったそうです。

当時のテレビがプロダクトとして優秀ではなかったのかというと、そうでもないようです。

街頭テレビを設置すれば黒山の人だかりができるほどには人々の欲求を満たせるものでした。

しかし、発売当初そんなテレビが人口に膾炙することは無かったのです。

当時働き盛りだった世代の方に話を聞くと「ラジオもあったし、無ければ無いで問題なかった」と言います。

そんな状況が変わったのはマスメディアの影響に依るところが大きいと思います。

1950年代以降「家電(家庭電化)」「三種の神器」などキャッチーな言葉を生み出し、精神・物質的な豊かさとテレビなどの電化製品を結びつけ、象徴化していったのです。

ステレオタイプ的な豊かさのイメージは国民規模で敷衍され、人々は豊かさを求めて電化製品を買い漁るようになったのです。

また、電話に関しても私たちは当初、ほとんどの人がそれを受け入れることはありませんでした。

じわじわとユーザーが増え、ある一定数を超えたところで爆発的に普及したのです。

電話を持っているのが自分だけならこれほど不便で空しいプロダクトはありませんが、周りの人がみんな持っていればこんなに便利なものはありません。

電話が「なくても大丈夫」な時代から「ないと不便」な時代に変化したのだと思います。

長々と書きましたが、何が言いたいのかというと、”プロダクトが人口に膾炙するかどうかは必ずしもそのプロダクトが優秀であるかどうかに左右されない”ということです。

ここで重要なキーワードは「権威」と「ネットワーク外部性」です。

 

 

-権威とネットワーク外部性-

 

さて、話をこの記事が主に対象にしているweb系のプロダクトの話に戻そうと思います。

先に述べた通り、あるプロダクトが人口に膾炙するか否かを決定づけるのは必ずしもそのプロダクトの性能だけではありません。

特に、上に挙げた「権威」と「ネットワーク外部性」は大変重要な要因になると思います。

電話の例がわかりやすいのですが、主にコミュニケーションを目的としたプロダクトはいかに性能が優秀であっても周りの人が使っていなければ誰も使わないと思います。

周りの人とコミュニケーションをとることができるから使うのでしょう。

周りに使っている人が増えれば増えるほど既存のユーザーは正のフィードバックを受け続け、得をし続けます。

これを「ネットワーク外部性」と呼ぶそうです。

これはFacebookなどのサービスに関しても全く同じことが言えると思います。

Facebookのプロダクトとしての性能に満足している人は実はあまりいないのではないでしょうか。

わたしたちがFacebookを使用するのは、このサービスが私たちにとって最適・最上の性能を持ったサービスであるからではなく、周りの知人友人が利用しているからではないでしょうか。

多くの方にとってFacebookの使用目的は「知人・友人の近況を知るため、自分の近況を知らせるため、興味関心を共有すため」ではないでしょうか。

現代社会において周りの人が一斉にあるプロダクトを使い出す状況をつくりだす為には、一定の影響力を持った「権威」の力が必要です。

すなわち、メディアによって盛んに取りあげられ、人々の話題に頻繁にのぼる必要があるのです。

 

 

-「プロダクトが優秀だからみんなが使う」のか「みんなが使うから優秀なプロダクト」なのか-

 

さらに、僕はコミュニケーションを目的としたプロダクトに関しては「プロダクトが優秀だからみんなが使う」のか「みんなが使うから優秀なプロダクト」なのかは明確に区別できるものではないと思います。

たとえば、あるプロダクトを周りの知人が10人しか使っていない場合と100人が使っている場合ではその性能は大きく異なるでしょう。

プロダクトの基本性能、web系ならソースコードはほとんど変化していなくてもプロダクトが10倍優秀になる、ということが起こりうるのです。

具体的な例を示しますと、最近話題になった学生起業家のプロダクトで「すごい時間割」というものがありました。

あのサービスの基本性能に関して、僕は特に「すごい」とは思いませんでした。

目的とするサービス内容に関して、実装されている機能は可もなく不可もなくといった印象を受けました。(もちろんそのような規準まで実装を完了することの大変さは承知の上ですが)

しかし、アプリをダウンロードし、自分の時間割を登録して、知人とコミュニケーションをとりました。

僕がこのサービスを使用したのは、紛れもなくプロダクトが優秀だったからではなく周りの人が使っていたからでした。

「すごい時間割」の「すごい」点は”学生にとって周りの知人・友人がサービスを使用している状況”を作りだしたことではないでしょうか。

そのような状況はメディアに注目され、盛んに取りあげられること無しには成し遂げられなかったでしょう。

 

 

-まとめ-

 

ネットワーク外部性」によって話題性とプロダクトの性能の境目がますます曖昧になっているwebの分野において、最初に挙げた記事の批判はちと的外れだと感じ、ここに書きました。

殊コミュニケーションを目的としたプロダクトにおいては、メディアに取りあげてもらうこともガリガリとコードを書くことと同様に「プロダクトの性能を上げる為の手段」として捉えてもおかしくはないはずです。

ここまで書いてきた通り、「プロダクトの性能さえ良ければ自然にバズって人口に膾炙する!」というの多分幻想です。

Facebookも最初は小さなコミュニティ内で「周りの人が当たり前のように使っている状態」をつくりだし、その規模を徐々に拡大させた事によって今の成功があるのではないでしょうか。

もちろん、プロダクトの基本性能と話題性が釣り合っているのに越したことは無いと思います。

プロダクトの基本性能が優秀→話題になってユーザーが増える→ネットワーク外部性によってプロダクトの性能がさらに優秀になる→話題になってユーザーが増える→・・・・というループが続いていくのが一番理想なのでしょう。

 

ではでは。

「生の現実」は存在しない

タルドとリップマンの議論を用いながら、「公衆」という概念が現代社会においてどれほどの意味を持つのか考察したい。


「公衆」とは

タルドは新聞などのマスメディアによって結びつけられた人々は民主主義を司る集団としては理想的な「公衆」を形成すると論じた。

新聞のようなマスメディアが生まれる以前は、技術やインフラの限界により人々は同じ意識や情報を同時に共有できるのは多くてもせいぜい数十から数百人程度であった。

鉄道技術や印刷技術の発達によって新聞のように広大な地域の膨大な人々に同様の情報を届ける事ができるようになった。

人類史上始めて距離的条件を無視して人々の意識が繋がるようになったのである。

タルドはそこでは人々の共通意識と共通情報により民主主義としてより賢明な判断がなされるようになると論じた。

タルドは「公衆」は、たまたま、もしくは意図的に場所を共有して集団である「群集」のようにある偏向的な意識統一により暴走することもありえるが、「寓集」よりも冷静な判断を行うだろうと考えたのだった。

たしかに新聞などのマスメディアの登場によって私たちはかつてないほどの規模で情報を共有できるようになった。

遠く離れた人々と同じ知識を共有し、同様の議題に対して議論が行えるようになった。

しかし、私たちがマスメディアから得ている情報は本当に同様なものなのだろうか。

そして、その情報は本当に私たちの民主主義社会をより善い方向に導いているのだろうか。

恣意性の全く介在しない情報や、誰にとっても同様な「生の情報」など存在しないのではないだろうか。

 

「生の現実」は存在しない

我々が触れているマスメディアの情報には常に何らかの恣意性が介在している。

たとえば、極端な例を述べると、2011年フジテレビは自社を責め立てるデモが起こったときに他社の報道に関係なくその様子を報道を控えた。

「客観的事実を伝える事が仕事」と言われているテレビ局でも自社の利益を損ねるような情報を報道することは無いのである。

このように、メディアは人がつくりだすものである以上何らかの意思がそこには働いている。

「意思」を持たない人間が存在せず、私たちが情報を得る為に何らかのメディアを用いる限り本当の意味で「生の情報」に触れる事は永久にできないのである。

メディアは、そこに関わる主体が相互作用し合い媒介する情報を重層的に構築していく「場」なのである。

リップマンは私たちはそれぞれ「ステレオタイプ」を持っており「現実を知る前に現実をつくりだしている」と論じた。

私たちは現実を認識する時に自らの規準によって取捨選択して情報を認識しているのである。

誰しも都合の悪い事には耳を塞ぐし、自分にとって都合の良いものであれば誇張して聞こえてしまうものである。

また、同じ内容でも悪人がという印象を持っている者が言ったのと善人という印象を持っている者が言ったのでは前者は嘘に聞こえてしまうし、後者はもっともらしく聞こえてしまう。

私たちは常に何らかの規準を持って現実を認識している。

そしてその規準は私たちとメディアとの関わり合いの中で、日々改変されていくのである。

現代は「メディアが現実をつくっている」と言っても過言ではない状況なのである。

 

現実ではなく目標として設定する

このようにタルドの論じた「公衆」には確かに多くの限界が存在する。

しかし、現代はメディアの双方向性が拡大し、規準をつくる側とつくられる側の境が曖昧になってきている。

そんな状況の中で、どうすればタルドが標榜した「公衆」を形作れるのかを「現実」としてではなく「目標」として認識していく事が重要だろう。

マスコミュニケーション研究批判

マスコミュニケーション研究の問題点と改善点をウィリアムズとマクルーハンの理論を援用しながら述べる。

マスコミュニケーション研究には3つ大きな特徴がある。

第一は、マスコミュニケーション研究はメディアを所与のものとして考える。

たとえば、電話が生まれ、ラジオが生まれ、テレビが生まれて携帯電話が生まれる、というようにメディア機器の変化をそこに介在する実践による相互作用の賜物ではなく、メディア進化論的に一方向に変化していくものであると捉える。

第二に、メディアが送り手と受け手を媒介する静的なものであると捉える。

そこではメディアは媒介する情報に何らかの影響を与える事もなく、送り手と受け手の間に介在して一義的に情報を伝えるものだと考えられる。

第三に、マスコミュニケーション研究は情報の送り手と受け手を明確に区別する。

そこには縦方向の関係があり、メディアを変えない限り送り手受け手関係が逆転する事はない。

 

確かに、普段の生活の中でも上に挙げたようなマスコミュニケーション論はメディアを的確に捉えているように思える。

例えば、テレビやラジオは情報の発信者が発信した事をそのまま伝えてくれているように見えるし、インターネットのサイトはそれを作った人の意図を明確に反映しているように見える。

そして、メディア進化論的なメディア機器の変化に対する視点も自然であるように感じる。

実際私たちの身の回りに存在する機器群は私たちの科学の進歩と並走するように進歩してきたように見える。

しかし、そのようなメディア観はメディア実践の成り立ちや機器の選択に対する制限を隠蔽してはいないだろうか。

 

まず、私たちを取り巻くメディア環境が何らかの権力や恣意性無しに進歩してきたものとは言えない。

例えば、日本人にとってテレビは1950年代ころまではあまり必要なものとは考えられておらず、新聞やラジオによって事足りていた。

しかし、マスメディアによる恣意的な煽動により、テレビを持つ事がアイデンティティと結びつけられ、テレビを持つ事がパーソナリティー的なアドバンテージとなる時代が到来した。

「家庭電化」、「三種の神器」といった流行語と共にテレビが経済的、精神的豊かさの象徴とされてされていったのである。

そこには明らかに商業的恣意性が介在しており、人類の集団的技術進歩の結果として現在のメディア環境があるとは言えないだろう。

 

そして、マクルーハンが「メディアはメッセージである」と指摘したように、メディアはそれ自体が媒介する情報の持つ意味を変容させる力を持つ。

メディアとメディアが媒介する情報が重層的、相互作用的に意味を造り出すのである。

たとえば、同じ著者が全く同じ内容の文章を書籍とインターネットを用いて発信したとする。

それを読む側は、書籍であれば気を引締めて情報を相対し、神経を集中させてその内容に対する理解を深めようとするかもしれない。

一方インターネットによってその情報に触れた場合は、膨大な情報の一欠片として流し読んでしまうかもしれない。

このように、全く同じ文字列でもメディアが異なればそこに織りなされる理解と受容のプロセスも異なってくるのである。

メディアはそこに関わる主体によって形を変え、それが媒介する情報の意味も変化させていく、記号の複合体なのである。

 

現代ではメディア通した情報の送り手と受け手という立場がますます曖昧になってきている。

例えば、インターネットを用いた動画の生放送の配信においては番組のパーソナリティーが視聴者からソーシャルメディア伝いに届けられた意見をその場で採用し、番組内容を変更していくことも珍しくない。

このような現象は発信から変化までの速度は異なるものの、ラジオ放送の時代から放送者と視聴者からの手紙という関係を通して往々にして存在したはずである。

 

以上のようにマスコミュニケーション研究は多くの限界を孕んでいる。

ウィリアムズが指摘したようにメディアを自明なものとして捉えたり、固定化されたもの、透明なものとして捉える事はその存在を裏付けている構造に疑いを持つ事を妨げ、そこで織りなされている相互作用を私たちの視界から奪いさってしまう。

メディアを流動的なものとして捉え、これまでメディアがどのような恣意性によって構築され、そこでどのような相互作用が生まれて情報が変容していったのかを明らかにすることで、これからの私たちのメディアを創りだしていく事が重要だろう。

脱囚人社会へ

こんにちは、前島です。

そういえば、先日僕たちtoizに関するスレッドを某巨大掲示板で見つけました。
知名度が上がって来た結果とも言えるのですが、概してネガティブなことが書き込まれる掲示板ですので、精神衛生上あまり見ない方が良いと判断しています。 
インターネットが一般的になってから、そういった掲示板やTwitterなどの大衆SNS上で現実社会で目立っている個人や団体の欠点を指摘して祭り上げる一種の「断罪」が行われる光景がみられるようになりました。 
断罪の対象が日常生活をおくることが困難になるまで追いつめられる事例も出てきています。 

自由闊達な意見交換が行われ、民衆によって公共圏が形成され、正すべきところは正されてよりよい社会が形成される。となれば良いと思うのですが、現実はそうはいきません。
それは、断罪を行う者達が偏りなく選定された民衆でもなければ、良識を持った市民でもない、という事があるからです。
そういった「断罪」の背後には私たちの社会全体の心理傾向の変化を内包した”大きな流れ” を感じます。

 

 

大衆は権力へ能動的に服従する
フランスの哲学者ミシェル・フーコーベンサムあ考案した監獄施設「パノプティコン」を比喩に出して、「現代人は権力に主体的に服従している」と指摘しました。

パノプティコンは円形の監獄施設で、囚人の監房が円形に配置され、その真ん中に監視施設が配置されます。
監房からは監視施設の中は見えず、逆に監視施設からはすべての監房は監視することができます。

そのような構造を採用することで、囚人はいつ自分が監視されていいるのかわからなくなり、常に監視を受けているような感覚になります。

そのうちに囚人達は恒常的な監視の恐怖から、能動的に規律を守り服従するようになります。 

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フーコー現代社会の大衆をパノプティコンに収容された囚人にたとえて、権力によって作られた社会システムに主体的に服従する存在として描写したのでした。

「見られている」から「見られたい」へ 

しかし、現在はフーコーが大衆を分析した時代とは随分事情が変わってきています。

社会通念の浸透により監視状態がより恒常化しただけではなく、メディアが双方向的になった事で大衆はより多くの情報を権力側に預けるようになりました。
人々はインターネットを使って日々せっせと個人情報をインターネット上にあげ続けています。
そうしている内に、人々の心理は「見られている」状態から「見られていないと落ち着かない」状態へと変化していきました。

「常に誰かとつながっていたい」「自分が今なにをしているのかを常に公開したい」 、このような欲求によって日々のできごとから些細な感情までを周知にさせています。 

 

無秩序な断罪
恒常的な「繋がりたい欲求」「知られたい欲求」は、今まででは本人やごく近しい人しか知りえなかった情報をよりオープンなものにします。

当然、その人にとっては気にも留めない些細なミスも公開されます。(もちろん重大なミスも公開されます)

そのような些細なミスは以前であれば、寛大な空気感のなか、社会的に許容されてきました。
しかし、現代ではそのような些細なミスも無限に拡散します。

その過程で良識ある市民によって意義のある忠告を受けることもあれば、社会的ルサンチマンを溜め込んだ人々によって際限の無い断罪・叱責を受けることもあります。
断罪は情報の拡散を加速させ、罪の重さは無限膨張を起こします。
つまり、以前では社会全体に共有される良識によって判断されていた罪の軽重が現代では個人レベルの価値規準によって判断されているのです。

 

囚人からの脱皮 

 フーコーが囚人の比喩を以て描写した大衆が断罪されている現状は皮肉ですね。
もちろん僕は罪を犯した人はそれなりのペナルティを受け、反省するべきであると考えています。
しかし、その量刑や罪状が良識の無い人々によって決められてしまう現状を危惧しているのです。
現代の「より多くの人に自分の行動に対する”アドバイス”を受けることができる」状況は素晴らしいと思います。 
しかしそのような状況も一人の悪意によって豹変してしまいます。
今後も個人情報が日々社会的に周知され、蓄積されていく状況は変わらないでしょう。
僕たちがお互いを囚人ではなく、同じ社会を共同体を構成する仲間として認識し、その人の情報を得た時に、怨恨のはけ口にするのではなく社会とその人自身にとってどのような応対をするのが最もよいのか、一人一人が考えられるようになったら良いですね。 

ちなみにこちらのFacebookページと連動して今後は交信していきますのでよろしくお願いします。
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