keimaejimaの日記

リクルートでエンジニアやってますが、ここでは情報社会論的なことを書きます

花見の楽しさについて

みなさんは今年、花見をしましたか?
僕は今年は東京と伊豆市で花見をしました。
桜は何度見ても良いものですね。

僕らは何故、人と一緒に花見をするのでしょうか。
もちろん桜の花が綺麗で、個々人の心に何らかの心地よい影響があるから、という理由もあると思います。
では、他の人と連れ添って花見をするのはなぜなのでしょうか。
僕は「自分と周りの人が同じものに対して美しいと感じている」という実感が重要なファクターであるように感じます。
普段友人と一緒に「この服良いよね」とか「この絵良いよね」とか言いながら同じ物に対する美意識を共有する事はあっても、花見ほどの大人数で共有される事はそうそうありません。
美意識の共有と共感によって自己が融解していく感覚、そこには本能的な快さがあるように感じます。
熱狂的なファンが多いアーティストのライブへ行って、熱狂のまっただ中にいる時の感覚にも似たものがあると思います。
人間には共感の度合いに比例して心地よさを感じる本能が備わっているのではないでしょうか。
花見の場合は、そこにさらに野外の開放感とアルコールの自我融解作用が加わります。
「花見の時はすごい楽しくなっちゃう」とい人も多いのではないでしょうか。

と、様々考えてみましたが、結局は気の置けない仲間と晴天の桜の下で宴をするのは理屈抜きで楽しいものですよね。

やさしいあなたが幸せになれる社会にしたいです

移住しまっす

僕は3月から伊豆市に移住します。

伊豆市で起業して、伊豆市で暮らします。

といっても週に1回は実家に戻って大学で授業を受けたり、ゼミに参加したりします。

この辺については別でまた詳しく書きます。

 

知らない人と接する機会

僕が住むところは伊豆市の温泉街から少し離れたところで、随分と田舎です。

既にそちらには何度も訪れているのですが、そこで感じるのが東京では見知らぬ人と接する機会が随分と多いなあという事です。

というか、電車など知っている人と一緒に乗る方が少ないです。

一方、伊豆市の僕が住む地域では道を歩いていても自分と関わりの無い人と会う事はまずありません。

その地域の方しかいないので当たり前っちゃあ当たり前です。

 

気を使わなくなる僕ら

そんな東京の中で起こっている現象についてすこし考えてみました。

「自分と関わりが無い人と思う人の中では、僕らは気を使わなくなるのではないか」という事についてです。

例えば、職場や学校、家族など自分と密接に関わりがある集団の中では僕たちは当たり前の様にお互いに気を使い、空気を読み合います。

それはきっと、その集団の中で自分と他者が同じリソースや目的を共有している事を認識しているからです。

それぞれが空気を読まなければ集団の目的は達成されませんし、自分がリソースを得る事が出来なくなるかもしれません。

たとえば、海賊の一味がいたとして、その一味の中の一人が他のメンバーより多くの取り分を得ようとしたらその人は一味から排除されるでしょう。

もしかしたら殺されてしまうかもしれません。

ところが、リソースや目標を共有していないと認識すると、僕たちは集団の中で空気を読まなくなります。

この事は例えば朝、東京のほとんどの駅で見る事ができます。

どんなに割り込んでも、押し込んでも、自分が得をする事はあっても損をする事はないだろうと思っているから、僕たちは我先にと電車へ駆け込みます。

肘で小突いたあの人や、睨みつけたあの人とはもう二度と会う事が無いし、そうした事によって自分がなんらかの不利益を被る事が無いと思っています。

 

なぜ関係ないと思ってしまうのか

なぜ僕たちは電車で居合わせた人を自分に関係ない人だと思ってしまうのでしょうか。

僕はその原因の一つに衣食住のアウトソーシングとあると思います。

現代日本人のほとんどが衣食住の全てを自分のコミュニティー内では直接的に生産していません。

僕たちの命を繋ぐものである「食べるもの」「着るもの」「住む場所」の生産をほとんどの人がコミュニティー外の人に委ねているのです。

そして、それらの生産者と僕たちが日常生活で接する事はほとんどありません。

つまり、直接的に僕たちの命をつないでくれている人と、普段接する人が別なのです。

そうして僕たちは名前も知らない、自分の生活にも関係ない人たちに気を使わなくなっていくのではないでしょうか。

昔のムラ社会では衣食住の生産者と自分がほとんどの場合同じコミュニティーに属していたので、人々が互いに空気を読み合って、秩序が保たれていたのではないでしょうか。(もちろんそれが全てではありませんし、手放しで賞賛する気はありません。)

 

気を使う人が損をする、それで良いのか

個々人が気を使い合わない社会の中では気を使う人が損をします。

空気を読む人が損をします。

電車の中で老人に席を譲った人ではなく、その席を奪いにいった人が得をします。

そんな社会で良いのでしょうか。

僕は良くないと思います。

 

関係ない事は無い

電車で居合わせた人は自分には関係のない人だ。

本当にそうなのでしょうか。

僕はそんな事は無いと思います。

きれいごとかも知れませんが、この世界に関わり合いの無い人はいないと思います。

全ての人間は何らかの形で繋がっています。

「スモールワールド現象」というものをご存知でしょうか。

これは無作為に社会の構成員のうちから二人を選ぶと平均して6人の知り合いを辿ればその二人は繋がるというものです。

昔に比べて繋がりが見えにくくなっているとは思いますが、確かに私たちは繋がっています。

僕が電車の中で見知らぬ人に与えてしまったストレスが巡り巡って色んな人の気分を害していき、いずれ自分に返ってくるかもしれません。

負の感情はもしかしたら僕の衣食住の生産に関わってくれている人のもとに届いてその人の生産性を落とし、結果的に僕は損をするかもしれません。

僕たち人間がコミュニケーションをする生き物である限り、全ての人は繋がっています。

 

世界はまだまだ善くなる

朝の電車でそんなに座りたいのかというと、そうでもないと思います。

本当座りたいのはよっぽど疲れている時だけではないでしょうか。

もし僕たちが「席に座るのは本当に疲れているときだけにして、あとは人に譲るようにしよう。」と決意できたら、世界は少し善くなるかもしれません。

そこで癒した誰かの疲れがいずれあなたを幸せにするかもしれません。

あなたの大切な人を幸せにするかもしれません。

そのように僕らが決意するために必要な事は色々とあると思いますが、僕はまずこの世界が繋がっている事をみんなが意識するようになる事だと思います。

その為の方法としては例えば、自分が暮らすコミュニティーを小さくしてみて、衣食住の生産者と普段接する人を同じにしてみる、「他人」と自分との繋がりを意識する為に知り合いを増やしてみるなどが考えられます。

 

単純に、人の気持ちを考えられる人が損をする世の中は嫌です。

これは頑張りたいです。

 

では

 

p.s.

僕はムラ社会や「空気を読む事」を手放しで賞賛する事はありません。

ムラ社会は没個など多くの弊害を孕んでいると思います。

また、空気を読んでばかりでは何が本当にみんなにとって幸せなのか考える余地が無くなりますし、イノベーションが起きなくなります。

その辺の線引きに関しては「空気の壊し方」という事でまた考えようと思います。

 

 

 

 

 

 

それでも僕が活字をえらぶ理由

情報獲得手段が沢山

現代って情報を得る為の手段が多いですよね。

テレビ、新聞、ブログ、ラジオ、YoutubeSNSなどなど。

活字を媒介とせずに情報を伝達するメディアも多いです。

テレビはもちろん、Youtubeニコニコ動画などの動画投稿サービス、そしてニコ生やUstreamなどの放送サービスが挙げられます。

上に挙げたサービスの利用者は年々増加しています。

私たちが仕事や学校など意外で自由に使える時間はほとんど変化していませんから、動画メディアに使われるようになった時間は過去に他のメディアに使われていたものが移行してきたという事になります。

実際総務省が発表する「情報通信白書」によると、近年日本人が新聞や書籍に費やす時間は減少を続け、動画サイトに費やす時間は増加し続けています。

そんな状況の中で、今後も活字メディア、特に紙媒体の活字メディアの衰退は続いていくのでしょうか。

僕はそうはならないと思います。

というかそうなったら凄くやばいと思います。

というのも、活字メディアが僕たちの知性に及ぼす影響は凄く大きく、それは動画メディアでは代替不可だと思うからです。

 

自分から取りに行く

活字メディアの良いところは僕たちが自分から情報を取りにいかなければ絶対に情報を得る事が出来ない点です。

動画メディアはただぼーっと画面を眺めていれば次々と情報が目に入ってきますが、活字メディアの場合はそうはいきません。

能動的に目を動かさなければなりません。

極端に言うと、動画メディアは僕たちの視線をどこに向けさせるかを自由に操れますし、取得させる情報の順番も操る事が出来ます。

情報を得る時にその順番やスピードをある程度は発信者の恣意性に任せても良いと思いますが、いつもそればっかりだとなんだか気持ち悪いですよね。

発信者によってコントロールできる要素が増える程私たちの思考の余地は削られていくのだと思います。

だから政治家は街頭演説を行うのでしょう。

文章だとつい考えてしまうような内容でも、演説だとついなんだか凄いという気にさせられてしまいます。

 

想像する

活字メディアは活字を媒体としたメディアですので、音声や映像を一次情報として伝える事はできません。

それらは自分で想像する必要があります。

音声や映像が活字メディアを通して語られる場合、書き手の主観が入り込みますがそれを理解しつつ自分なりに状況を想像してみるのはなかなか楽しいものです。

世の中は一部の情報しか与えられなくてあとは自分で想像しなければならない、ってことで溢れていると思います。

 

スピードコントロールが自由

映像メディアの場合情報取得のスピードをコントロールする事は難しいです。

ぼーっと画面を見ていても、色々と考えながら見ていても次々と場面は移り変わっていきます。

一方活字メディアの場合は自分で好きなだけ情報取得スピードをコントロールする事が出来ます。

文章を読んでいる途中でふと立ち止まって想像を膨らませたり思索を深めたりしていても、それが終わるまで待っていてくれます。

能動的に情報を取得して思索を深めるにはもってこいのメディアです。

 

水路を作ろう

(ちょっと表題には関係ないかもしれませんが)よく大学の友人などで「文章を読んでもすぐに忘れてしまうから時間を無駄にしているようで読む気を無くす」という声をよく聞きます。

僕は文章を読む事が時間を無駄にしているというような事は無いと思います。

確かに、僕も文章を読んで、その内容を忘れてしまうという事が頻繁にあります。

文章を読んでもそこで得た知識を全て思い出す事は不可能です。

しかし、しっかりと思索を深めながら読んだ文章は必ず僕たちの地肉になっている思います。

この世界に溢れる情報群を海と例えると、その海と私たちの間には水路がはられています。

海からやってきた情報は僕たちのもとに水路を辿ってやってきます。

しっかりと思索を深めながら文章を読むということは、新たな情報を得ると同時に、水路の形を変えていく行為だと思うのです。

水路はその形によって情報の性質を変化させます。

すなわち、しっかりと思索しながら文章を読む事によって、そこで得た知識は消えてしまったとしても私たちが情報を得て思考する枠組みには影響を残す事ができるという事です。

 

要はバランス

いつもこれでまとめてしまっている気がしますが、要はバランスだと思います。

動画メディアもめちゃくちゃ便利です。

想像の余地をはさまない事で作り手が伝えたい事をピンポイントで伝えるという点は大変優れています。

生放送などは一目で現場の雰囲気がわかります。

 

活字メディアも映像メディアもバランスよく利用していきたいですね。

では

 

 

 

 

 

やさしいあなたが幸せになれる社会にしたいです

移住しまっす


僕は3月から伊豆市に移住します。


伊豆市で起業して、伊豆市で暮らします。


といっても週に1回は実家に戻って大学で授業を受けたり、ゼミに参加したりします。


この辺については別でまた詳しく書きます。


 


知らない人と接する機会


僕が住むところは伊豆市の温泉街から少し離れたところで、随分と田舎です。


既にそちらには何度も訪れているのですが、そこで感じるのが東京では見知らぬ人と接する機会が随分と多いなあという事です。


というか、電車など知っている人と一緒に乗る方が少ないです。


一方、伊豆市の僕が住む地域では道を歩いていても自分と関わりの無い人と会う事はまずありません。


その地域の方しかいないので当たり前っちゃあ当たり前です。


 


気を使わなくなる僕ら


そんな東京の中で起こっている現象についてすこし考えてみました。


「自分と関わりが無い人と思う人の中では、僕らは気を使わなくなるのではないか」という事についてです。


例えば、職場や学校、家族など自分と密接に関わりがある集団の中では僕たちは当たり前の様にお互いに気を使い、空気を読み合います。


それはきっと、その集団の中で自分と他者が同じリソースや目的を共有している事を認識しているからです。


それぞれが空気を読まなければ集団の目的は達成されませんし、自分がリソースを得る事が出来なくなるかもしれません。


たとえば、海賊の一味がいたとして、その一味の中の一人が他のメンバーより多くの取り分を得ようとしたらその人は一味から排除されるでしょう。


もしかしたら殺されてしまうかもしれません。


ところが、リソースや目標を共有していないと認識すると、僕たちは集団の中で空気を読まなくなります。


この事は例えば朝、東京のほとんどの駅で見る事ができます。


どんなに割り込んでも、押し込んでも、自分が得をする事はあっても損をする事はないだろうと思っているから、僕たちは我先にと電車へ駆け込みます。


肘で小突いたあの人や、睨みつけたあの人とはもう二度と会う事が無いし、そうした事によって自分がなんらかの不利益を被る事が無いと思っています。


 


なぜ関係ないと思ってしまうのか


なぜ僕たちは電車で居合わせた人を自分に関係ない人だと思ってしまうのでしょうか。


僕はその原因の一つに衣食住のアウトソーシングとあると思います。


現代日本人のほとんどが衣食住の全てを自分のコミュニティー内では直接的に生産していません。


僕たちの命を繋ぐものである「食べるもの」「着るもの」「住む場所」の生産をほとんどの人がコミュニティー外の人に委ねているのです。


そして、それらの生産者と僕たちが日常生活で接する事はほとんどありません。


つまり、直接的に僕たちの命をつないでくれている人と、普段接する人が別なのです。


そうして僕たちは名前も知らない、自分の生活にも関係ない人たちに気を使わなくなっていくのではないでしょうか。


昔のムラ社会では衣食住の生産者と自分がほとんどの場合同じコミュニティーに属していたので、人々が互いに空気を読み合って、秩序が保たれていたのではないでしょうか。(もちろんそれが全てではありませんし、手放しで賞賛する気はありません。)


 


気を使う人が損をする、それで良いのか


個々人が気を使い合わない社会の中では気を使う人が損をします。


空気を読む人が損をします。


電車の中で老人に席を譲った人ではなく、その席を奪いにいった人が得をします。


そんな社会で良いのでしょうか。


僕は良くないと思います。


 


関係ない事は無い


電車で居合わせた人は自分には関係のない人だ。


本当にそうなのでしょうか。


僕はそんな事は無いと思います。


きれいごとかも知れませんが、この世界に関わり合いの無い人はいないと思います。


全ての人間は何らかの形で繋がっています。


「スモールワールド現象」というものをご存知でしょうか。


これは無作為に社会の構成員のうちから二人を選ぶと平均して6人の知り合いを辿ればその二人は繋がるというものです。


昔に比べて繋がりが見えにくくなっているとは思いますが、確かに私たちは繋がっています。


僕が電車の中で見知らぬ人に与えてしまったストレスが巡り巡って色んな人の気分を害していき、いずれ自分に返ってくるかもしれません。


負の感情はもしかしたら僕の衣食住の生産に関わってくれている人のもとに届いてその人の生産性を落とし、結果的に僕は損をするかもしれません。


僕たち人間がコミュニケーションをする生き物である限り、全ての人は繋がっています。


 


世界はまだまだ善くなる


朝の電車でそんなに座りたいのかというと、そうでもないと思います。


本当座りたいのはよっぽど疲れている時だけではないでしょうか。


もし僕たちが「席に座るのは本当に疲れているときだけにして、あとは人に譲るようにしよう。」と決意できたら、世界は少し善くなるかもしれません。


そこで癒した誰かの疲れがいずれあなたを幸せにするかもしれません。


あなたの大切な人を幸せにするかもしれません。


そのように僕らが決意するために必要な事は色々とあると思いますが、僕はまずこの世界が繋がっている事をみんなが意識するようになる事だと思います。


その為の方法としては例えば、自分が暮らすコミュニティーを小さくしてみて、衣食住の生産者と普段接する人を同じにしてみる、「他人」と自分との繋がりを意識する為に知り合いを増やしてみるなどが考えられます。


 


単純に、人の気持ちを考えられる人が損をする世の中は嫌です。


これは頑張りたいです。


 


では


 


p.s.


僕はムラ社会や「空気を読む事」を手放しで賞賛する事はありません。


ムラ社会は没個など多くの弊害を孕んでいると思います。


また、空気を読んでばかりでは何が本当にみんなにとって幸せなのか考える余地が無くなりますし、イノベーションが起きなくなります。


その辺の線引きに関しては「空気の壊し方」という事でまた考えようと思います。


 


 


 


 


 


 

あなたはどの「成功」を選びますか?

ある視点から見ると、一世代前に比べると僕たちは明らかに「成功」しづらくなっています。

「ある視点」というのはこれまでの日本で常識として志向されてきた価値規準です。

収入が多かったり、多くの部下がいたり、学歴が高かったり、大きな家に住んでいたり、そんな感じの価値規準です。

要は、より多くを持っていて、より偉い人が幸せであるという価値観です。

その視点から見ると、これからどんどん「成功」できる人の数は減っていくと思います。

経済は縮小し続け、グローバル化が進んでいるので、「成功」する為にはこれまでより苛烈な競争環境の中でこれまでより小さなパイを取り合わなければいけません。

ならば国外に出れば良いじゃないかと思うかもしれませんが、アメリカなどの西側諸国の頑張り(?)のおかげで、今や世界のほとんどの国は上に挙げたような価値を志向しているようですし、新興国の成長も著しいですので、パイが小さく競争が激化していくという減少自体は変わりません。

このような状況の中で僕たちがとれる対応策は大きく3つに分けられると思います。

 

厳しい競争の中でもパイを奪えるような優秀な人間になる。

いくら競争が激しくても、その中で勝つ事が出来れば何の問題もありません。

その為に努力して優秀な人間になろう、という施策です。

誰にでも勝てる能力を身につければどんなに競争が激化しても成功をつかみ取る事ができます。

 

なるべく競争の穏やかなパイを狙う。

これは割とミクロな視点です。

例えば都会で豪勢な生活をする為には大金が必要ですが、田舎に住めばより少ない資金で都会と同じレベルとまではいきませんがそれなりに豪勢な暮らしが出来ます。

また、就職活動で所得水準は同程度でも社会的地位が高くなく、倍率が低い職種を選ぶのもこの施策の一種だと思います。

競争の激しくないパイを狙う事で自分が成功できる確率を上げようという考え方です。

 

「成功」に対する考え方を変える。

これはそもそも「パイをゲットしたら勝ち」という価値観を捨てちゃおうという考え方です。

この考え方を選んだ人にとって、沢山持っている事や、地位がある事は必ずしも重要ではありません。

この施策を選ぶ人はそもそもパイの奪い合いに参加しないのでパイが小さくなろうが競争が激化しようが関係ありません。

具体例を挙げると、田舎に住んで自給自足で地域コミュニティーの中で慎ましく暮らす、などの例を挙げられるでしょうか。

 

僕らは大きく分けてこの3つの内のどれかを選ばなければならなくなると思います。

①〜③の良い悪いについてはあえてここでは言及しません。

正直どの考え方を選んでも本人が幸せであれば良いのでは無いかと僕は思います。

競争が本当に好きな人もいればそうでない人もいます。

でも、自分がどの価値観を志向しているのかということはしっかり意識しておいた方が良いのではないかと思います。

②や③を選ぶ人も増えて来たとは言え、日本社会は基本的に①を原理として動いています。

自分にとってどの考え方が一番心地良いのかという事を意識せずに生きていたら自動的に①のシステムに組み込まれるように日本の社会制度は構築されています。

どんな生き方を選ぶにせよみなさんにとって生きづらくない生き方、なるべく幸福だと感じられる生き方である事を願います。

そして、日本がそうやって個人が選択した生き方を許容してくれる社会である事を切に願います。

 

 

 

それでも僕が活字をえらぶ理由

情報獲得手段が沢山


現代って情報を得る為の手段が多いですよね。


テレビ、新聞、ブログ、ラジオ、YoutubeSNSなどなど。


活字を媒介とせずに情報を伝達するメディアも多いです。


テレビはもちろん、Youtubeニコニコ動画などの動画投稿サービス、そしてニコ生やUstreamなどの放送サービスが挙げられます。


上に挙げたサービスの利用者は年々増加しています。


私たちが仕事や学校など意外で自由に使える時間はほとんど変化していませんから、動画メディアに使われるようになった時間は過去に他のメディアに使われていたものが移行してきたという事になります。


実際総務省が発表する「情報通信白書」によると、近年日本人が新聞や書籍に費やす時間は減少を続け、動画サイトに費やす時間は増加し続けています。


そんな状況の中で、今後も活字メディア、特に紙媒体の活字メディアの衰退は続いていくのでしょうか。


僕はそうはならないと思います。


というかそうなったら凄くやばいと思います。


というのも、活字メディアが僕たちの知性に及ぼす影響は凄く大きく、それは動画メディアでは代替不可だと思うからです。


 


自分から取りに行く


活字メディアの良いところは僕たちが自分から情報を取りにいかなければ絶対に情報を得る事が出来ない点です。


動画メディアはただぼーっと画面を眺めていれば次々と情報が目に入ってきますが、活字メディアの場合はそうはいきません。


能動的に目を動かさなければなりません。


極端に言うと、動画メディアは僕たちの視線をどこに向けさせるかを自由に操れますし、取得させる情報の順番も操る事が出来ます。


情報を得る時にその順番やスピードをある程度は発信者の恣意性に任せても良いと思いますが、いつもそればっかりだとなんだか気持ち悪いですよね。


発信者によってコントロールできる要素が増える程私たちの思考の余地は削られていくのだと思います。


だから政治家は街頭演説を行うのでしょう。


文章だとつい考えてしまうような内容でも、演説だとついなんだか凄いという気にさせられてしまいます。


 


想像する


活字メディアは活字を媒体としたメディアですので、音声や映像を一次情報として伝える事はできません。


それらは自分で想像する必要があります。


音声や映像が活字メディアを通して語られる場合、書き手の主観が入り込みますがそれを理解しつつ自分なりに状況を想像してみるのはなかなか楽しいものです。


世の中は一部の情報しか与えられなくてあとは自分で想像しなければならない、ってことで溢れていると思います。


 


スピードコントロールが自由


映像メディアの場合情報取得のスピードをコントロールする事は難しいです。


ぼーっと画面を見ていても、色々と考えながら見ていても次々と場面は移り変わっていきます。


一方活字メディアの場合は自分で好きなだけ情報取得スピードをコントロールする事が出来ます。


文章を読んでいる途中でふと立ち止まって想像を膨らませたり思索を深めたりしていても、それが終わるまで待っていてくれます。


能動的に情報を取得して思索を深めるにはもってこいのメディアです。


 


水路を作ろう


(ちょっと表題には関係ないかもしれませんが)よく大学の友人などで「文章を読んでもすぐに忘れてしまうから時間を無駄にしているようで読む気を無くす」という声をよく聞きます。


僕は文章を読む事が時間を無駄にしているというような事は無いと思います。


確かに、僕も文章を読んで、その内容を忘れてしまうという事が頻繁にあります。


文章を読んでもそこで得た知識を全て思い出す事は不可能です。


しかし、しっかりと思索を深めながら読んだ文章は必ず僕たちの地肉になっている思います。


この世界に溢れる情報群を海と例えると、その海と私たちの間には水路がはられています。


海からやってきた情報は僕たちのもとに水路を辿ってやってきます。


しっかりと思索を深めながら文章を読むということは、新たな情報を得ると同時に、水路の形を変えていく行為だと思うのです。


水路はその形によって情報の性質を変化させます。


すなわち、しっかりと思索しながら文章を読む事によって、そこで得た知識は消えてしまったとしても私たちが情報を得て思考する枠組みには影響を残す事ができるという事です。


 


要はバランス


いつもこれでまとめてしまっている気がしますが、要はバランスだと思います。


動画メディアもめちゃくちゃ便利です。


想像の余地をはさまない事で作り手が伝えたい事をピンポイントで伝えるという点は大変優れています。


生放送などは一目で現場の雰囲気がわかります。


 


活字メディアも映像メディアもバランスよく利用していきたいですね。


では


 


 


 


 


 

あなたはどの「成功」を選びますか?

ある視点から見ると、一世代前に比べると僕たちは明らかに「成功」しづらくなっています。


「ある視点」というのはこれまでの日本で常識として志向されてきた価値規準です。


収入が多かったり、多くの部下がいたり、学歴が高かったり、大きな家に住んでいたり、そんな感じの価値規準です。


要は、より多くを持っていて、より偉い人が幸せであるという価値観です。


その視点から見ると、これからどんどん「成功」できる人の数は減っていくと思います。


経済は縮小し続け、グローバル化が進んでいるので、「成功」する為にはこれまでより苛烈な競争環境の中でこれまでより小さなパイを取り合わなければいけません。


ならば国外に出れば良いじゃないかと思うかもしれませんが、アメリカなどの西側諸国の頑張り(?)のおかげで、今や世界のほとんどの国は上に挙げたような価値を志向しているようですし、新興国の成長も著しいですので、パイが小さく競争が激化していくという減少自体は変わりません。


このような状況の中で僕たちがとれる対応策は大きく3つに分けられると思います。


 


厳しい競争の中でもパイを奪えるような優秀な人間になる。


いくら競争が激しくても、その中で勝つ事が出来れば何の問題もありません。


その為に努力して優秀な人間になろう、という施策です。


誰にでも勝てる能力を身につければどんなに競争が激化しても成功をつかみ取る事ができます。


 


なるべく競争の穏やかなパイを狙う。


これは割とミクロな視点です。


例えば都会で豪勢な生活をする為には大金が必要ですが、田舎に住めばより少ない資金で都会と同じレベルとまではいきませんがそれなりに豪勢な暮らしが出来ます。


また、就職活動で所得水準は同程度でも社会的地位が高くなく、倍率が低い職種を選ぶのもこの施策の一種だと思います。


競争の激しくないパイを狙う事で自分が成功できる確率を上げようという考え方です。


 


「成功」に対する考え方を変える。


これはそもそも「パイをゲットしたら勝ち」という価値観を捨てちゃおうという考え方です。


この考え方を選んだ人にとって、沢山持っている事や、地位がある事は必ずしも重要ではありません。


この施策を選ぶ人はそもそもパイの奪い合いに参加しないのでパイが小さくなろうが競争が激化しようが関係ありません。


具体例を挙げると、田舎に住んで自給自足で地域コミュニティーの中で慎ましく暮らす、などの例を挙げられるでしょうか。


 


僕らは大きく分けてこの3つの内のどれかを選ばなければならなくなると思います。


①〜③の良い悪いについてはあえてここでは言及しません。


正直どの考え方を選んでも本人が幸せであれば良いのでは無いかと僕は思います。


競争が本当に好きな人もいればそうでない人もいます。


でも、自分がどの価値観を志向しているのかということはしっかり意識しておいた方が良いのではないかと思います。


②や③を選ぶ人も増えて来たとは言え、日本社会は基本的に①を原理として動いています。


自分にとってどの考え方が一番心地良いのかという事を意識せずに生きていたら自動的に①のシステムに組み込まれるように日本の社会制度は構築されています。


どんな生き方を選ぶにせよみなさんにとって生きづらくない生き方、なるべく幸福だと感じられる生き方である事を願います。


そして、日本がそうやって個人が選択した生き方を許容してくれる社会である事を切に願います。