人と比較してやる気が削がれない生き方をするために必要なこと
こんにちは、@keimaejimaです。
たまに、学生時代の同級生とかでぐうたらと努力もせずに楽しそうに生きている人を見ると、やる気が削がれそうになりますよね。
同級生に限らず、人と自分の境遇を比較してやる気が削がれそうになった経験がある人は結構いると思います。
今回は、なぜやる気が削がれるのかということと、やる気が削がれないためにはどうすれが良いのかということについて書こうと思います。
自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ
僕が勤めているリクルートは以前、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉を社訓にしていました。
この言葉は、人のモチベーションサイクルを非常に端的に的確に言い表した言葉だと思います。
やる気がある人が単純に結果を出せるのではなくて、結果を出し新しい機会をつかみとることが自信や能力の向上につながり、また新しい成果・機会へと繋がっていくということです。
やる気があるから機会があるし、機会があるからやる気がでるという循環構造を表しているわけです。
で、何が言いたいかというと、ほとんどの人はこの言葉のように何か努力をしたらそれなりの成果が得られるということを前提としてモチベーションが維持されているのではないでしょうか。
めちゃくちゃ単純化すると、下の図のようなイメージです。
この図のように、努力と成果は必ず正比例していて、努力の量だけ結果につながらないとおかしいと考えている人は多いと思います。
アッパー系とダウナー系
ただ、現実は必ずしもこの図のような関係性で成り立っているわけではありません。
要領が良くて少量の努力でものすごい成果をあげる人もいますし、七光や運によってそもそもスタート地点(上の図で言う起点)が違う人もいます。
そうした世界の中で、自分より努力をせずに成果をあげている(ように見える)人を目の当たりにすると人はやる気が削がれてしまいます。
冒頭で言った、モチベーションサイクルが前提としている努力と成果の比例関係が覆されてしまい、自分の努力が本当に成果につながるということが信じきれなくなってしまうからです。
逆に、正当な努力をして成果をあげている(と自分が思える)人をみるとモチベーションが上がる人は多いと思います。自分がしている努力がいずれ報われるということが保証されたような気がするからでしょう。
要するに、人それぞれ自分が持っている努力と成果の比例関係の尺度に合致する人をみるとやる気が上がり、合致しない人をみるとやる気が削がれてしまうのです。
他人が持っている努力と成果の比例関係の尺度は、自分のモチベーションにとってはアッパー系にもダウナー系にもなりうるということです。
人と比較してやる気が削がれない生き方をするために必要なこと
もちろん自分が持っている「成果」の尺度が自分の人生にとって適正なものであるかどうかは日々点検していきたいですが、基本的にはその尺度を信じて日々邁進して人生を豊かにしていきたいものです。
ですので、人と自分の尺度を比較してやる気が削がれてしまうことは、人生にとってはっきり言って雑音です。
そのような雑音を減らす、もしくはシャットダウンするための方法をいくつか考えてみました。
①ロールモデルを持つ
自分が持っている努力と成果の尺度において、何歩か先を進んでいいる人を見つけるのは有効だなあと思います。
自分が頑張っている分野でそれなりに成果をあげている人で、七光や運ではなく、努力によって成果をあげている人が良いと思います。
その人が存在しているということは、少なくとも自分が持っている努力と成果の尺度がそんなに間違っていないということですし、雑音が入ってきて自分の尺度を疑いそうになったとしてもその人のことを見れば冷静になれるはずです。
②社会的な尺度を一通りクリアするもしくは全く気にしない
雑音の一部には、年収やら結婚やら学歴など社会一般的な尺度も混ざっていたりします。
取り組んでいる分野は違うはずなんだけど、自分より年収が高い人を見るとモチベーションが落ちてしまう人はいると思います。
少し乱暴ですが、そういった尺度を全く気にせず生きるのは難しいので、一度クリアしてしまうのが良いのではないかと思います。
例えば、年収で言うと650〜1000万を超えると、感じられる幸福度に変化がなくなるといいます。そうした社会的に良しとされる一定のレベルを一度超えてしまえば、精神的にはかなり自由になると思います。
とはいえ、20代の平均年収が300万円と言われ、社会的な要請と現実が乖離している社会の中ではそうそうクリアするのは難しい面もあると思います。
そうした場合は、社会的な尺度を全く気にしないという手もあります。(ただ、僕自身そうした考え方で2年ほど田舎に引っ込んで暮らしていた時期もありましたが、「自分は努力せずに社会的な要請からにげてしまっているのではないか」という意識に苛まれ、別のしんどさがありました。よほどの決心や信念がない限りは難しい選択肢なのかもしれません。)
③周りを似たような努力と成果の尺度を持った人で固める
結局はこれが一番なのかなと思います。
自分に近しい努力と成果の尺度を持っている人の中に身を置くのです。
いつも一緒に仕事をしている人や、プロジェクトに取り組んでいる人が、自分と同じような努力と成果の尺度を持っていれば、一時の雑音にはそうそう紛わされないようになると思います。
個人の意思や決心には限界があるので、環境によってモチベーションを制御するという考え方です。
仲間って大事ですねえ(しみじみ)。
以上です!
すべての意思決定が、データにもとづいてなされる時代はくるのか
こんにちは、@keimaejimaです。
現代って、これまで価値があるとされてこなかったものの価値がすごい勢いで見直されていく時代ですよね。
特に、技術の発展によって情報が可視化されたことによって、これまで価値が認められなかったことに対して価値があると認識されたり、数量的な比較の対象になって序列がつけられる例が出てきています。
実例としては、たとえば単なる人の注意を引くこと(アテンションエコノミー)や、特定の言語に対して価値が認められるようになってきています(言語資本主義)。
アテンションエコノミーとは
アテンションエコノミーというのはアメリカの社会学者マイケル•ゴールドハーバーが1997年に提唱した概念で、現代においては人々のアテンション(=関心、注目)それ自体に経済価値が含まれているという考え方です。
アテンションを集めるだけで経済的価値を得ることができるようになった理由の一つはインターネットを利用する人の爆発的な増加です。世界中のインターネット利用者は2013年には27億4千万人にのぼっています。2006年からの7年間で2倍以上に増加しているのです。大量のユーザーを動員することで、広告などによってアテンションを集めるだけで経済的価値を得ることが可能になったのです。
また、同時にインターネット上のアクセス分析技術の向上もアテンションエコノミーを支えていると言えます。アクセス解析によって、どのようなコンテンツが収益につながるのか詳細に分析できるようになったことで、「アテンションが経済的価値につながる」ということが実証できるようになったのです。
言語資本主義とは
言語資本主義とは、たとえば英語や日本語といった諸言語や、言語の中での特定の単語や文章に対して価値の差をつけることによって生み出される経済圏を指します。
実例としては、たとえばGoogle Adwardsがあげられます。Google Adwardsは検索キーワードをクライアントに対して販売しています。クライアントは、特定の検索ワードによってリスティング広告がユーザーの検索結果に表示されることに対してお金を払います。
より検索件数の多いキーワードや、広告を出したいと思うクライアントが多い言葉に対しては高い値段がつく仕組みになっています。当然、世界的に話者が多い英語の言葉や、「住宅」「海外旅行」といったメジャーな単語に対しては高い値がつくようになります。
様々なものが価値の序列をつけられていく
上にあげた二つは、これまでに価値の序列を認められてこなかった「人の注意」や「言語や単語」に対して価値が認められたり、優劣がつけられるようになった実例です。
こうしたことが起こった原因として、やはり技術の発展が大きく寄与しています。人々の消費経路や行動がより詳細に可視化され、分析できるようになったことで価値の序列がつけられるようになったのです。
今後、こうした技術は僕たちの生活の中にさらに深く入り込んできます。そして、あらゆるものが価値の序列の中に組み込まれていくと思います。
僕たちの日常生活に技術が入り込み、より詳細にデータが取得されるようになれば、たとえば、どういった癖を持つ人が経済的に成功しやすい、人に好かれやすいといったことがより実証的に可視化されていくことになります。
そんなに悪い未来ではないと思う
身のまわりの人やものが序列化されていくことに対して、強い抵抗感を持つ人もいると思います。全てのものが数量的データに還元され、いずれは全ての人の意思決定がデータに基づいて、統計的になされることになってしまうように感じるのかもしれません。僕自身はそんなに悲観していません。
人類は、数量的データによって序列をつけるということを1000年以上続けてきました。だからといって、データによってすべてが決まる世の中にはなっていません。
データ人間が判断を行うための一つの要素であるにすぎません。食事をするときに、食べログを参考程度に見るようなものです。
また、技術が発達し続ける今の世の中においても宗教を信じる人が増え続けています。「全ての人は無条件に尊い」といったような神秘主義的な考え方今後もさらに広がっていくと思います。こうした、数量的データではなく、信仰に基づいた考え方が存在する限り、全ての人の意思決定がデータに基づいてなされる社会はこないと思います。
情報が可視化されることによって、僕たちの意思決定はより効率的になっていきます。そして、ある種の信仰と技術がバランスをとりながら、尊いものは尊いと無条件に認め、そしてデータよって意思決定が効率化される社会は結構良いものではないだろうか、と思ったりしています。
以上です!
参考:バイラルメディアの台頭により顕著になる「アテンションエコノミー」とは | Credo, Google AdWords - 広告オークションの仕組み - YouTube, Amazon.co.jp: データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則: 矢野 和男: 本
良いプレゼンをするために工夫している4つのこと
こんにちは、@keimaejimaです。
僕は割とプレゼンが好きです。
学生時代は、ビジコンで優勝して賞金を何百万円か稼いだり、シリコンバレーに連れて行って貰ったりと割と良い成績を残してきました。リクルートに入ってからも、プレゼンの機会が結構あり、まあまあ良い評価を貰っている気がします。
今回は、プレゼンを作るときに気をつけていることを共有します。
いきなりスライドを作りはじめない
プレゼンが得意ではない人のよくある特徴として、いきなりプレゼン資料を作りはじめてしまう、ということがよくあります。
プレゼンの目的は様々ありますが、そのほとんど「自分の提案を相手に理解してもらう」「自分の達成した成果を相手に伝える」といったことであるはずです。
つまり、ある一つのゴールに向けて、説明が積み重ねられていくのです。そうなると、当然スライドとスライドとの間はしっかりとした論理展開で繋がれているべきであり、矛盾は許されません。
いきなり資料を作り始めるとスライド一枚づつの「点」に意識が集中してしまい、そのプレゼンが何のためのものなのか忘れられてしまいがちです。
ですので、まずは紙に図を描く、論理展開を文章にしてみるなどなんらかの形でプレゼン全体を「線」として描いてみてからスライドを作り始めることをおすすめします。
自分なりの「型」を持つ
プレゼンで使うスライドにとって、論理と同じくらい重要なのが「ビジュアル」です。
いくら論理がしっかりとしていても、それを視覚的に伝えることができなければ共感を生むプレゼンはできなかったりします。
一方で、デザイナーでもない限り視覚的に訴えるプレゼン資料を作るのは大変なことです。
そこでおすすめしたいのが、自分なりのプレゼン資料のテンプレートを作っておくことです。
プレゼンの中で、自分のアイデアを説明したときに用いる図は無限に数があるわけではなく、三段論法、ベン図、フローチャートといった風にある程度数が限られているはずです。
そうした、論理を説明するためのプレゼン用テンプレートをあらかじめ用意しておくのです。実例を貼っておきます。
こうした「型」を持っておくことで、「今回はどんな図を使って説明しようか」という時間を節約することができますし、テンプレート自体を日々洗練させていくことができます。
説明できないことはスライドにはいれない
僕がプレゼン資料を作るときに気をつけることとして、「説明できないことは資料の中に入れない」ということがあります。
プレゼン資料を作る過程で、色々と調べているうちに「この情報も入れておいた方が良いのではないか」という気持ちになってきますが、基本的には自分が知識として持っていること、論理的に説明できること以外はプレゼン資料には入れるべきではないと思います。
また、うろ覚えの知識についても同様です。プレゼンの本番では緊張する人が多いと思いますが、緊張した状態でも話が確実にできる内容だけを資料には入れるべきです。
資料に入っているのに、質問されて答えられなかったりすると相手に不信感を与えてしまします。
また、緊張して説明を飛ばしてしまうようなことがあると論理の崩壊につながってしまう恐れがあります。
想定問答集を作る
僕は、質問が入る可能性のあるプレゼンの前にはなるべく想定問答集を作るようにしています。
想定問答集とは、プレゼンの内容に関してプレゼンを聞いた相手が質問してきそうなことと、それに対する答えをまとめた表のようなものです。
僕はいつもGoogle Driveのシートでこれをつくっていて、電車の中などで思いついた想定質問などもメモるようにしています。
これを作ることによって、実際のプレゼンの場で質問をされた時に焦らずに回答できるということもありますが、一歩引いた客観的な視点で自分の資料を見直せるという良さがあります。
聴衆や審査員の気持ちを想像しながら自分の資料を点検することで、論理的な穴や説明不足な部分を発見することができたりします。
時間があれば、この想定問答集に加えて、Appendix資料のようなものを付録としてつくっておけたらより良いです。
ほとんどのプレゼンでは時間がとても限られているのて、重要なんだけど削らざるをえない説明ってありますよね。そんな時はわざとプレゼン資料の中に小さな穴をつくっておいて、「ここ、質問するべきですよ」と審査員に教えてあげる。そしてAppendix資料で手厚く説明するというのも一つの有効な手です。
以上、僕がプレゼンをする時に気をつけている4つのことを紹介しました。総合すると、重要なのはなるべくプレゼンの内容自体を考えることに集中できるように、プレゼンをつくるという行為に対してはいくつかのルールをあらかじめ持っておくことなのかなと思います。
他にも良い方法があったら教えていただけると嬉しいです。以上です!
テクノロジーは人間を奴隷にするのか
こんにちは、@keimaejimaです。
毎日ニュースなどで、テクノロジーの進歩に関する話を聞かない日はないですね。
多くの場合、テクノロジー関連の話題はポジティブなニュアンスで語られています。
テクノロジーはきっと僕たちの日々の生活や労働を楽にそして豊かにしてくれると信じられています。
一口に「人間を豊かにする」と言っても、世の中のテクノロジー関連のサービスや企業がその背景にしている思想は大きく二つに分けられると思います。
一つは「人間の能力を拡張することで豊かさを獲得できる」という思想。もう一方は「人間のまわりの様々なわずらわしさを解消することで豊かさを獲得できる」という思想です。
前者をApple型、後者をGoogle型と言っても良いかもしれません。
Apple型とは
ここで言うApple型の思想は、テクノロジーによって人間の身体や感覚を拡張しようする考え方を指します。
Appleがスティーブ・ジョブズによって強力にその技術開発・商品開発を先導された企業であることはあまりにも有名です。
スティーブ・ジョブズは「人間はこうあるべき」という確固たる未来像を持ち、「その新型ツールを使って、人類はなにができるようになるのか?」というテクノロジーによって人間の能力がどのように拡張されるのかを意識していたと言われています。
メディア論の大家であるマーシャル・マクルーハンは技術を「人間の身体を拡張するものである」ひいては、「人間の感覚を拡張するものである」であると考えました。
つまり、技術によって今まで見ることができなかったものが見れるようになったり、コミュニケーションの範囲や仕方が変化したりそういった類です。
もちろんAppleだけではなく、FacebookやLINEなどのコミュニケーション系のサービスを提供する企業や、Adobeの製品などもこうした思想に関連していると考えることができます。
Google型とは
Google型の思想は、テクノロジーによってこれまで人間が行ってきたわずらわしいもの、人間が行うべきではないものをテクノロジーによって代替することを目指します。
Googleが創業当初から「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」というビジョンを掲げていることもまたとても有名ですね。
このビジョンは「情報の収集や整理は人間がやるべきことではなく、テクノロジーがやるべきであり、人間は思索やコミュニケーションに時間を使うべきである」と読み替えることができます。
AIなどの最先端の情報技術だけではなく、洗濯機や掃除機といったおなじみの家電もこうした思想に基づいて作られていると考えることができます。
GoogleがGoogleグラスを作っているような例もあるので、あくまでこの二つの分類は便宜的なものであるということは留意してください。
テクノロジーの発展の先にあるもの
では、こうした思想に基づいたテクノロジーが発展し続けた結果、人間や社会はどのように変化するのでしょうか。
どちらについてもポジティブな未来とネガティブな未来の両方を想定することができます。
たとえば、Apple型の思想に基づいたテクノロジーが発展し続けた未来をポジティブに捉えるならば、人間は今までできなかった創造的な作業を容易に行うことができるようになり、イノベーションが各所で起こり、人はより充実した人生を送ることができると考えることができます。
一方で、ネガティブに捉えるならば、人間はその活動をテクノロジーによって制御されると捉えることもできます。
先に挙げたマクルーハンですが、「メディアはメッセージである」(The medium is the message)という有名な言葉を遺しています。
これは、仮に私たちが頭の中にある同じメッセージ(意味・内容)を伝えようとしても、メディアのあり方によって表出されたメッセージ、そして私たち自身の振る舞い方も変化するから、結果としてメッセージ自体も変化してしまうという意味です。
どんなメディアを仲立ちとするのかによってメッセージの内容が変容してしまうのはもちろん、私たちの振る舞いも変化してしまうのです。
身近な例でたとえるならば、紙の手紙とLINEで同じことを伝えようとしても、相手に伝わるメッセージや、それを伝えようとする人自身の振る舞いが異なるといったことを考えるとわかりやすいと思います。
マクルーハンはメディアをより広義に、テクノロジーとほぼ同義に捉えていたため、「テクノロジーはメッセージである」と訳しても良いかもしれません。
つまり、テクノロジーが発展し、私たちの生活の隅々にいきわたったとき、私たちの振る舞いは常にテクノロジーによって規定され、「テクノロジーの奴隷になる」とネガティブに考えることもできるということです。
一方で、Google型のテクノロジーの先にはどのような未来が待っているのでしょうか。
ポジティブに考えるならば、人間のまわりにある人間がやるべきではない作業をテクノロジーが代替してくれるようになって、人間は人間らしい行いに集中することができるようになると考えることができます。
そうなった時に人間は何をしているのか、そしてGoogle型の思想が想定している「人間らしさ」とは何なのかについてのヒントは歴史の中にあります。
たとえば、古代ギリシャ時代の裕福な人々は1日の多くの時間を娯楽や思索のために使っていたと言います。
そうした人々は人類が忌むべき制度ではあるものの奴隷制に支えられており、生きるために必要な生産活動や身の回りのことを一切する必要がありませんでした。
そのような状況で人々は「世界を成り立たせているものは何か、人間とは何か」などといったことについて考え続け、哲学や数学の基礎を築きました。
プラトンの「饗宴」などを読むと、ひたすら「愛とは何か」について語り合っていて、いかに彼らに時間・精神的余裕があったのかがわかります。
一方でGoogle型のテクノロジーがつくる未来をネガティブに捉えると、また人間は「テクノロジーの奴隷になる」でしょう。
これは、たとえば人間の活動や身の回りの世話をテクノロジーが無限に代替していった結果、玉ねぎの皮をむくように人間の労働や活動が剥がされていき、究極的には何も残らなかった場合などが該当します。
つまり、「人間らしさ」などどこにもなく、人間がただテクノロジーの導くままに寝食を行い、ただただ生を全うする存在になるということです。
映画「マトリクス」的なディストピアとも言えます。
「テクノロジーはツールであり、その使い方次第で人間にとって利益にも不利益にもなる」といった意見もありますが、上にあげたように既に人間はテクノロジーに取り囲まれており、テクノロジーによってある程度意思決定や振る舞いを規定されています。
そういった意味では、既に僕たちには自由意思などないのかもしれません。
どうせなら未来はより良いものになって欲しいので、テクノロジーを使う立場であり、作る立場にも足を突っ込んでいる自分としてはこういったことに自覚的であり、より良い未来をつくっていければと思う次第です。
現代社会では職人になりたい人はITエンジニアになるとお得なのではないかという話
Photo by Marcie Cases
今、僕はリクルートライフスタイルという会社のエンジニアーグループで働いています。
周りにはエンジニア暦10年以上ですとか、小学校からプログラミングやってきました、みたいな人が結構います。
そういった人たちを見ていて、「職人っぽいなあ」と感じます。
僕の兄は家具を職人をやっていて、作品作りに全力でコミットする姿を見ていたりするので、そういった姿に似ているなあと思ったりするのです。
実際職人の辞書的な意味は「技術で物を作る職業の人」ですから、IT系のエンジニアを職人と言ってもおかしくはないと思います。
技術の移り変わりの早さ
そんな現代における職人・エンジニアですが従来的なエンジニアとは圧倒的に異なる特徴が二つあると思います。
一つは、扱っている技術の移り変わりの早さ、もう一つはエンジニア同士の関係です。
移り変わりの早さにはいくつか理由があると思いますが、最も大きなものは直接的に物質と結びついていないということだと思います。
従来の職人芸であれば、何かものを作ってそこから知見を得て、技術を改良していくという実際のものと不可分でした。
一方で、コンンピューターに関わる技術は、コンピューターの処理能力に依存する部分もありますが、本質的には物質と関連しない「情報」です。
物に縛られない分、次々と改良を重ねていくことができるのです。
そのせいもあって、例えば、流行りのプログラミング言語などはものすごい勢いで変化していきます。(参考:プログラミング言語年表)
そのせいもあって、知り合いのすごいできるエンジニアは「3年あれば一つの言語をある程度極められるよ」と言っていました。
シェアの文化
もう一つは、情報共有が極めて盛んであるということです。
基本的にエンジニアは技術を独り占めすることはなく、シェアの文化が根付いており、今日も世界中でリアルの場でもネットでも技術的知見の共有が行われています。
それは、やはり有名な書籍『伽藍とバザール』でも言われている通り、みんなで情報をシェアしてつくった方が早いし良いものが作れるということが信じられているからだと思います。
そもそも、技術をシェアすることができるというところにITエンジニア的スキルの特徴があります。
昔の職人芸で言うと、そのほとんどは言語化、体系化が難しかったのではないかと思います。
そういった技術がどのように伝えられてきたのかというと、徒弟制によって師匠から弟子へ伝えられてきたのです。
それも言語によってではなく、「見て学ぶ」という形で暗黙知的・非言語的に伝えられてきたのです。
寿司屋でも漆塗り職人でも一人前になるのに10年以上の歳月を必要としたのはそういうことだと思います。
一方で、ITエンジニアのスキルはそもそもデジタルで、論理によって駆動しているので、「言語化できない」「体系化できない」ということがほとんどあり得ません。
それ故に世界中の人々が共通言語によって情報交換をすることができるのです。
職人になりやすいよ
要するに何が言いたいのかというと、職人気質の人、職人っぽいことをやりたい人にとっては非常にやりやすい世の中だなあということです。
技術の変化が早いので圧倒的優位性は生まれにくいですし、シェア文化によってすぐに情報を仕入れて、身につけることができます。
そのことによって、早ければ半年、長くても数年頑張ればそれなりの職人になれてしますのです。
このことが良いことなのか悪いことなのかは正直わかりませんが、僕みたいに小さいころからコンピューターに触れてきたわけではない人にとってはとてもありがたい時代だなあと思います。
以上っす!
「若者が消費しなくなった」は本当なのか
Photo by Yoshikazu Takada
随分前から、「若物は消費しなくなった」という意見をテレビでもネットでもよく目にしますよね。
中学高校の友人とかも含めて、自分の周りの人を見ていても特に節制したりめちゃくちゃ貯金したりしているようには見えないので、これって本当なのかと思って考えてみました。
多様化して、具体的な物質と結びつくことが少なくなっただけ
結論から言うと、若物は消費しなくなったのではなくて、消費行動が多様化して、かつ具体的な「モノ」を買わないようになただけだと僕は思います。
色々な調査をみてみても、確かに貯蓄意識は高まっているようですが、特別若者がお金を使わなくなったという調査結果は見つかりませんでした。
参考:『若者の消費行動にみる日本社会の未来形』、『若者のライフスタイルと消費行動』
ではなぜ「お金を使わなくなった」ように見えるのでしょうか。それには2つ理由があると思います。
一つは、若者のニーズが多様化したことが挙げられます。かつての日本のように、強い勢力を持つ若者文化がなくなってしまい、それぞれが自分の好みに合った消費行動をするため大きな消費の波のようなものが見えにくくなってしまったのです。
たとえば、若者の飲酒離れが叫ばれていますが、それは家飲みをする人が増えたり、他の娯楽に興じる人が増えた結果です。実際は他のことで消費を行っているのですが、若者の飲酒消費習慣のグラフだけを見ると、たしかに若者が消費をしなくなっているように見えるのです。
もう一つは、目に見えるものにお金を使わなくなったということがあげられます。スマホなどを通して売買されるものの中には、形を持たないものが多くあります。
ゲーム、アプリ、写真、音楽、映画などです。従来の若者が買っていた服や車のように実際の形を持っており、身につけるということができないため若者が消費をしていないように見えるのです。
(質素な服を着た大学生がスマホでめちゃくちゃ課金している、というった例はたくさんありますよね)
若者の消費変化三段階
戦後の若者の消費について考えると、かなり乱暴ではありますが大きく三つの段階に分けられるのかなと思います。
一つ目は、「豊かになるため」に消費をしていた時代です。これは恐らく1960年代くらいまでだと思いますが、冷蔵庫や洗濯機など何でも良いですがとにかく戦後すぐの大変な時代からより豊かになるためにものが消費された時代です。
そして次が、「自己実現」のためにものを消費していた時代です。生活は十分豊かになって、今度は自分を飾ったりより自分らしく生きるために消費が行われた時代です。
糸井重里さんの「欲しいものが欲しいわ」という有名なコピーが作られたのは1988年ですが、ちょうどこの時代を表す言葉だと思います。
要するに、「欲しいもの」に本質的価値、実用的価値は無くて、自分が欲しかったり他人が欲しがったりするから欲しいのだ、ということです。服や車などがよく消費されていたのがこの時代ですね。
そして三つ目が、現代にも続いている時代です。この時代は二つ目の時代の特性を引き継ぎつつ、情報化の進展によって若者に消費されるものが具体的な形を持たなくなった時代です。
まとめると、二つ目の時代から三つ目の時代への移行によって若者の消費が具体的な形を持たなくなり、「若者が消費しなくなった」ように見える、というわけなんですね。
(IoTの普及や、意識の変化によって再び若者が物を中心とした消費や文化生成に回帰するかもしれないと個人的には考えているのですが、長くなるので今回は割愛します。)
とりあえず以上っす!
Photo by Moyan Brenn
「論理的に物事を考える人は心が冷たい」は本当か
論理と情感を二項対立させ、かつそれらが同時に成り立たないとする言説、形を変えていろんなところで聞きます。
僕も何となーく、そうなんだろうと信じていました。
そして、論理側に自分が振れすぎないように、気を使ったりしてきました。
しかし、昨年の最後の方にちょっと考え方が変わりました。
昨年はアート分野で活躍している方とコミュニケーションする機会が多い一年でした。
すなわち、情感と論理を二項対立させた場合の「情感側」で活躍する人たちです。
彼らとコミュニケートする中で、驚くほど理知的に話す人が多いことに気がつきました。
そして、「芸術(情感)と科学(論理)って似ているなー、論理と情感の二項対立ってあんまり意味ないよなー」と思いはじめました。
僕が芸術と科学が似ていると思った理由は大きく二つあります。
一つは、どちらも何かを近似化しようという行為であるという点です。
芸術は作品によって感動を近似化しようとします。
だから、たとえば絵画の分野では現実を鏡に映したような写実画が必ずしも人を感動させることができるわけではありません。
芸術とは広義には感動という捉えどころの無いものを近似化して作品にし、それを見た人の心に感動を生み出すことを希求する行為だと思います。
だから象徴画や抽象画が芸術として成り立つのでしょう。
一方、科学は現象を数式によって近似化しようとします。
自然現象を数式によって予測し、自然を説明できるだけの、限りなく自然に近いモデルの構築を目指します。
そうして、誰が何度やっても同じ結果がでる矛盾の無い論理体系の完成を目指します。
僕が芸術と科学が似ていると思ったもう一つの理由は、芸術と科学がどちらも近似化の対象を真に表現することはできないことを前提としている点です。
すなわちどちらも真善美を追求しながらも、そこに到達することはできないという前提を持っているのです。
たとえば、どんなに美しい芸術作品でもそれは「真の美」にはなり得ません。
あくまでも、「真の美」に近づけたものを作っているにすぎないのです。
仮にある芸術作品が「真の美」であるとすると、その作品とは何の対応もない他の芸術作品を僕たちが美しいと感じる理由が説明できなくなってしまうのです。
芸術の多様性そのものが芸術が「真の美」に到達することができないという証左になっています。
一方科学が用いる数式も、自然現象そのものになることは永久にありません。
たとえば、「複雑ネットワーク」の分野では、人的ネットワークを分析することを通して、病原菌の拡散経路分析などを行いますが、分析結果は現実そのものではありません。
近似化したモデルで、限られた認識のなかで予測や分析を行うことしかできません。
さらに、すべてのデータを収集することは不可能ですし、現象は時々刻々と変化し、観察行為そのものが現象自体に影響を与えます。
仮にすべてのデータを収集することができたとして、限りなく短い一瞬の現象を写し取ることができたとしても、それを現実と呼べるのかどうかは疑問です。
芸術も科学も、事実を積み重ねて体系化し、長い歴史の中で真善美を追求してきました。
究極にシニフィアンに近いシニフィエをつくりだす為に幾人もの人が努力を続けています。
やっぱり似ているなーと僕は思います。
きっと科学者には熱い思いが有り、芸術家は戦陣が残してきた技術の論理体系があるはずです。
明確に線引きができるものでは無いと思うんですね。
だから、僕には論理と情感の二項対立がなんだか空虚なものに思えます。
以上から「論理的に物事を考える人は心が冷たい」は偽だと僕は考えます。